主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、 サムエル記第一の1章です。よろしくどうぞ。
サムエル記第一 1章18節
彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
サムエルの母ハンナには、長いこと子どもができませんでした。それで「あなた子どもはまだなの?」と現代でもよくあるような理不尽なプレッシャーをかけ続けられて弱っていました。
そこでハンナは神様に祈りました。素直に「子どもが欲しいです」と。その祈りを終えて家に帰って食事をしましたが、その時すでにハンナの顔はそれまでのように弱って落ち込んだ顔ではなかったそうです。つまり明るく晴れやかな顔になっていたのでしょう。ハンナは神様を信頼していたのだと思います。だからまだ「子どもが与えられる」という結果が具体的に出ていなくても「神様に祈ったんだからもう大丈夫」と、気が晴れて顔が明るくなったのかと思います。
現代でも僕たちクリスチャンは自分の悩みについて祈ります。でもそのとき、祈る前と祈った後で、変わらない顔をしてはいないでしょうか。たとえば「お金が必要です」と祈って、その結果として必要なお金が与えられればそのときにはもちろん喜びますが、「お金が必要です」と祈った時点では「まだ与えられてないし、与えられるかわからないし」と、祈る前と同じ不安の中にいて、同じ不安な顔をしているものではないでしょうか。それも無理もないことですし、僕だってだいたいそうです。でもそれはよく考えれば神様を信用していないということにならないでしょうか。
たとえば家にコショウがないとき、家族や誰か信用できる人に「コショウを買ってきてくれる?」とおつかいを頼んだら、「よし、これでもうコショウは心配いらない」と安心するのではないでしょうか。もしそのおつかいを頼んだのに「まだコショウが実際に手に入ったわけではないから」と、コショウのことを心配し続けているとしたら、それはおつかいを頼んだ相手を信用していないということです。
僕たちが神様に祈る時、他のどんな存在よりも信頼のおける神様にお願いしているのにもかかわらず、「本当に実現するかしら」と心配しているわけです。それはコショウのおつかいを頼むときに「あなたがコショウを買うのをお願いするけれど、実際にコショウが手元に来るまでは信じませんからね」と言っているようなものです。そんな頼み方をされたら、頼まれた方だって「なんだその頼み方は失礼な!誰がコショウなんて買ってきてやるものか」と思ってしまうかもしれません。
祈るときはそれがもう実現したものと思って祈れ、とよく言われます。そんなこと言われたって実際はなかなか難しいものです。だからこそここに描かれているハンナの姿勢は、僕たちクリスチャンの一つの模範になるものだと思います。少なくとも祈ったことは神様に預けてしまって、自分の思い煩いからは外してしまう。これが祈りのコツなのかと思います。また、人間同士でも誰かに何かをお願いしたら、そのことについてはその人に任せて信頼して、自分ではああだこうだと考えすぎない、このことが大切かと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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