「論破」は正義を証明できるのか【聖書からよもやま話401】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、詩篇の12篇です。よろしくどうぞ。

詩篇 12篇14節

彼らはこう言っています。
「われらはこの舌で勝つことができる。
この唇はわれらのものだ。
だれが われらの主人なのか」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

現代日本では何かの勝負を決するときに武力や暴力を用いることは稀です。ビジネスにおいても政治においても、はたまた夫婦喧嘩においても、勝負を決するのは原則として「舌」です。言論や弁論で物事を決する社会です。

古代ギリシアの哲学者プロタゴラスは言いました。「人間は万物の尺度である」と。これは「変わらない正義や価値なんて存在しない。それは人間が弁論によって決めるべきものである」という意味でした。それを聞いた人々は「弁論に勝った人が正義であって、つまり正義を主張するには弁論に強くなくてはならないのだ!」と多くがプロタゴラスの下に集い、弁論術を学びました。ギリシアにディベートの大ブームが起こりました。詭弁でもなんでも、相手を「論破」すれば自分の正義を主張できる時代がやってきました。

これ、ちょっと現代日本と似ていませんか?相手を「論破」することで、自分の正義を確信したり、他人に主張したりする風潮。これが今の日本でも日々、強くなっているように思います。これで本当に「正義」が実現できるのでしょうか。

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UnsplashGeron Disonが撮影した写真

同じような疑問を古代ギリシアのプロタゴラスに対して抱いた人がいました。それがかの有名なソクラテスです。ソクラテスは「人の弁論とは関係なしに正義は厳然と存在する」と考えました。それでプロタゴラスの一派と対立しました。

聖書もまた、同じような問いを、この詩において立てています。人々は自分たちの「舌」つまり弁論を自分たちの主人だと思っているけれども、本当にそうなのか。そんなわけはない。自分たちの主人はあくまで神であり、神は自分たちの弁論とは関係なしに厳然と存在するのだ、と。

もちろん弁論も言論も大切なものです。それを否定するわけではありません。しかしそれも人間に与えられた有用でありつつも有限なツールの一つにすぎません。一つのツールを絶対視しすぎるのは危険なことです。弁論も言論もたしかに大事ですが、弁論や言論では変え得ない、動かし難いものも世界にはあるのだということを、意識しておくこともまた大切なことかと思います。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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