「もう死んだってかまわない」と思えるほどの喜び【聖書からよもやま話341】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、創世記の46章です。よろしくどうぞ。

創世記 46章30節

イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。おまえがまだ生きていて、そのお前の顔を見たのだから。」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ヤコブ(イスラエル)とヨセフの親子は数十年ぶりに再会しました。ヨセフはヤコブの首に抱きついて泣き続け、ヤコブは「もう私は死んでもいい」とまで喜びました。

本当に「もう死んでもかまわない」と思えるほどの喜びって、人生にどれほどあるでしょう。「これが叶うなら死んでもかまわない」と思えるほどの願いなら、もしかしたらあるかも知れませんが、大体の場合はそれが本当に叶ったら「やっぱりまだ生きたいな」と心が変わるのではないでしょうか。「この人と結婚できるなら死んだっていい!」なんてことを思ったとして、実際にその相手と結婚することになったら、死ぬなんてもったいないですものね。死んじゃったら結婚生活を楽しめませんから。

ですから大抵の場合「もう死んでもかまわない」という喜びの表現は、あくまで表現上の慣用句のようなものであって、実際に死んでもかまわないと思っているわけではないのでしょうね。
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しかし、このヤコブの場合はもしかして本当にその場で死んでしまったとしても本望だったのではないかと思います。死んでしまったと思っていた最愛の子と再会し、その子はエジプトの宰相にまで出世し、しかもその子が自分の首に抱きついて泣いてくれている、親としてこれほど嬉しいことはないでしょう。「もう死んでもかまわない」と本当に心から思えるほどの喜びは、親子や肉親の情にはあるように思います。そこにあるその表現は慣用句ではなく、しばしば心からの本音です。

そして、本当に「死んでもかまわない」と死んでしまった人がいます。イエス・キリストです。イエス様は僕たち一人一人に対して「君が救われるなら僕は死んだってかまわない」と言ってくださり、そして本当に十字架で死んでくださったんです。僕たち一人一人が救われることは、イエス様にとって、神様にとって、それほどの喜びなんです。まさに神様は僕たち一人一人を、自分の子ども、肉親のように愛してくださっているんです。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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