主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、ホセア書の5章です。よろしくどうぞ。
ホセア書 5章6節
彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主を尋ね求めるが、見つけることはない。
主が彼らから離れ去ったのだ。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
世間一般では宗教は「自分で選ぶもの」という認識があるように思います。「どの神様を信じるのは自分で選んで自分で決めるものだよね」というような。信じる神様に対して、あくまで人間の側に選択肢があるような認識をしているように思います。
しかし本当は、人間が神様を選んでいるのではなく、神様が人間を選んでいるんです。自分では「自分で神様から離れると決めたのだ」と思っていても、実は神様の方がその人から離れるということが往々にしてあるわけです。
太陽と地球の関係については、この令和の時代に天動説を唱えれば「まだそんなことを信じているの?変わった人だ」なんて思われるでしょうが、太陽と地球の関係以外のことについて、人類は驚くほど天動説を採用しています。神様と自分の関係がその最たるものです。多くの人は、自分を中心に神様の方が自分の周りを回っているというような世界認識をしています。しかし本当は、太陽の周りを地球が回っているように、神様が真ん中にいて、その周りを人間が回っているんです。基準になるのは自分ではなく、神様です。
キリスト教においては、人生の決定的な決定権を持っているのは「私」ではなく、神様です。もちろん「私」にもある程度の決定権は与えられていますが、本質的な決定は神様の領域のことです。だってそもそも、自分が生まれる時に「よし、産まれるぞ!」と自分の意思で決めたという人はいませんから。「産まれる」という最も根源的な決定は自分ではなく、神様の領域です。人間の存在の根底は神様の手の中にあります。そしてそれは「信じる」ということについてもそうなんです。
「自分が神様を選んだのだ」という視点に立っていると、神様への本当の感謝は生まれてきません。「こんな自分を神様が選んでくださったのだ」という視点に立ってこそ、本当の感謝が生まれます。神様は僕たちに「私が君を選んだんだから大丈夫だよ!」と言い続けてくださっているんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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