主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、出エジプト記の8章です。よろしくどうぞ。
出エジプト記 8章6節
アロンが手をエジプトの水の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおった。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
この箇所、僕が聖書の中で一番ゾッとするシーンです。黙示録とかにある「世界の終わり」的な恐ろしいシーンよりも、僕にとってはこのシーンの方がずっと恐ろしいです。はい、それはもう単に僕が蛙が大嫌いというだけの理由なんですけれども。すみません。
蛙が街中を覆い尽くすなんて恐ろし過ぎます。聖書のこの記述のおかげで僕はたまに、大量の蛙に追いかけ回されて電話ボックスに逃げ込んだら四方のガラスにまで蛙が張り付いてきて、しまいには天井から蛙が落ちてくる・・・なんていう恐ろしい夢をみます。あるいはお風呂に入ろうとバスタブの蓋を開けたら蛙がワラワラ・・・だとか。「ぎゃーーーー!」と叫んで目が覚めます。
蛙がそれほど嫌いじゃないという皆さんも、たとえばゴキブリとかネズミとかミミズとか、ご自身が一番嫌いな生き物に置き換えてこのシーンを読んでみてください。身の毛がよだつような気持ちになると思います。
神様って、ものすごい力を持っているんです。人をこらしめようとか怖がらせようと思ったら、その人が最も恐れるものを大量発生させたりもできてしまうわけです。そして何がその人にとって最も恐ろしいのかも、しっかりとご存じです。本気になれば本当に僕の部屋のバスタブを蛙で満たすこともできるでしょうし、僕の寝ている顔の上に蛙を乗せることだってできるでしょう。そんなことをされたら僕はショック死しかねませんし、少なくとも1週間くらいは寝込んでしまうでしょう。そのくらい嫌いなんです、蛙。
「火の雨が降る」とかそういったどこか漠然として想像のしにくいシーンよりも、こういうリアリティのあるシーンの方が神様の力の凄さを実感できたりします。蛙のブヨブヨした肉感、ヌルヌルした表面、グニャグニャした動き方・・・そういうシズル感を伴う恐怖。神様は漠然とした方ではなく、リアリティとシズル感をもった方なんだということを、このシーンを読むたびに実感します。
そしてそれは、恐怖だけではなく、愛や恵みについても同じことです。神様の愛は漠然としたものではなく、リアリティとシズル感を伴うものです。これだけの恐怖を作り出すことのできる神様ですが、それをはるかに越える愛と恵みで僕たちを包んでくれています。そして何よりありがたいことに、イエス様の十字架によって、僕たちは蛙のシズル感を実際に味わうことから解放されて、愛と恵みに包まれることを約束されているんです。
恐怖のシズル感から逆算すれば、愛にもシズル感が出てきます。するとまたいっそう、神様に感謝する気持ちも湧いてくるんです。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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