主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、ヨハネの黙示録の22章です。よろしくどうぞ。
ヨハネの福音書 3章12節
わたしはあなたに地上のことを 話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
世の中には目に見えないものを信じている人が現代でもたくさんいます。クリスチャンももちろんそうですが、そうでなくてもお寺や神社や占いやパワースポットやスピリチュアルな何かを信じる人もたくさんいます。ただ、その多くの人に共通して往々にして見られることは「目に見えないものは信じるけれど、目に見えるものは信じない」ということです。
これは実は特にクリスチャンに多いものです。端的に言えば、「神様やその救い、愛は信じるけれど、イエス様の十字架と復活は信じない」ということです。「愛」とか「道徳」とかそういう目に見えないものは「信じたいもの」として受け入れるけれど、イエス様の復活という物理世界に実際に起こった事実については「信じがたいもの」として信じない人が、実はクリスチャンの中にもたくさんいます。
しかし、使徒たちは「信じていること」を語ったのではなく、この直前の11節にも「わたしたちは知っていることを話、見たことを証ししているのに」とある通りに、実際に目の当たりにした「地上のこと」を語っているんです。
三国志に登場する張飛という英雄は「八百八屍将軍」と呼ばれました。これは一人で808人もの敵兵を倒したのでこう呼ばれるようになったと言われています。しかし、後世の学者はこれを「一人で808人も倒すのは無理だから、きっと実際に倒したのはそれよりずっと少なくて、でもそれで808人いた部隊が怖気付いて撤退したということだろう」なんて、勝手な解釈をして張飛さんの英雄ぶりを値下げした評価したりします。
たしかに、実際に張飛さんが808人の敵を倒したかどうかは、今からは検証できません。しかし、僕たちは初めから「そんなことありえない!大袈裟に言ってるだけだ!」なんて決めつけるより前に、まずは素直に「すごいなー!808人も倒したのか。そりゃ大層な英雄だ!」と受け止めることが必要なのではないでしょうか。
イエス様の復活も、たしかに「そんなことありえない!」と思ってしまうことは無理もありませんが、だからこそ、まず一度素直に「死んだ人が復活したの!?すごい!!」と受け止めてみることも大切なのだと思います。聖書に書いてあることを勝手に値下げして解釈してしまうことは、神様に失礼にあたるかもしれませんし、何より自分の見識の可能性を自分で狭めてしまう、きわめてもったいないことじゃないかと思います。
目に見えないものを信じるのは実は簡単なことです。それは単に「信じたいこと」を信じれば良いだけですから、そこに何の根拠も必要ありません。しかしそれを本当に信じるためには、その根拠になった物理的な「地上の事実」を信じることが不可欠です。世の中の多くの「信じる」にはそれが欠けているように思います。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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