最期の30分に何をしますか?【聖書からよもやま話264】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、ヨハネの黙示録の8章です。よろしくどうぞ。

ヨハネの黙示録 8章1節

子羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ほどの静けさがあった。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

世界の終わりについて記された黙示録は、かなり恐ろしい出来事や災害の連続で、息をつく間もないほどです。しかし、世の終わりに解かれる7つの封印の最後の一つを解いたとき、半時間、つまり30分ほどの静けさがあると記されています。

これ、まさに究極の「嵐の前の静けさ」ですよね。だってその30分の後には嵐だけでなく地震雷火事オヤジ・・・と、ありとあらゆる災害が起こるんですから。

正直なところ、僕にはこの黙示録に記されている黙示を解釈するのは難しいです。そのとき、この世に何が起こるのか、わかりません。黙示録は本当に解釈の難しい書ですし、この黙示録の曲解によって、多くのカルト宗教が生まれています。

でも僕は、何がそのときに起こるかは分からないけれども、その「世の終わり」が起こる前に30分の静かな時間が与えられるなら、その30分をどう過ごそうかと考えました。「愛する人と過ごしたい」とか「おいしいものを食べたい」とかも浮かんできましたが、最終的には、「その時間を祈って過ごす者でありたい」と思いました。「ありたい」というか、そうしかできないだろうな、と思いました。世界の終わりではなくとも、もし僕が死刑囚だとして、死刑執行の前に30分の自由時間を与えられたら、たぶん同じようにするんじゃないか、そうしかできないんじゃないかと思いました。
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いや、もしかしたら家族に電話するかもしれません。それで10分か20分か、最後の挨拶をするかもしれません。でも、それだけでその30分を使い切ることは、たぶんできないだろうなと思います。祈ることなしに、最期の瞬間を覚悟をもって迎えることはたぶん僕にはできません。

いえ、でももしかしたら本当は恐怖におののいて、泣き叫ぶだけで終わってしまうかもしれません。「祈る者でありたい」とは思いますが、そこで本当に祈れるほどの強さが僕にあるかどうか、ちょっと、いや、かなり、いや、まったく自信がありません。それでも確かに、祈る者で「ありたい」とは明らかに思えました。

最期の30分に何をするか。それを考えると、「信仰とは何か」という難儀な問いに、少しだけヒントが与えられた気がしました。

今日はずいぶんとりとめもない感じですが。
だって難しいんですもの黙示録。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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