主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、 ヨハネの黙示録の16章です。それではよろしくどうぞ。
◆ヨハネの黙示録 16章11節
その苦しみと腫れもののゆえに天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
黙示録には世の終わりのことが記してあります。中でもこの16章は世の終わりに神様を信じない人たちに与えられる裁きについて書いてあり、その裁きの中には災害や疫病も含まれています。裁きを与えられた人たちは、その裁きによって悔い改めるどころか、さらに神様に文句を言って逆らうようになると書かれています。
ときどき「神がいると言うのなら証拠を見せてみろ」と言う人がいます。でもきっとその人はどんな証拠を見ても神様を信じることはないでしょう。だってすでに、神様の証拠はイエス様の十字架と復活によって示されていますし、それは証言として2000年後の現代にまで引き継がれているのですから。クリスチャンの立場からすればそれは、たとえるなら地面に足跡が残っているのに「足跡があってもそこに人がいたとは僕は信じない!その本人を見るまで信じない!」と言うようなものです。
逆に、他にどんな証拠を示せばその人たちは信じるのでしょう。黙示録に記されている裁きも、神様の力を示す一つの証拠です。しかしそれを目の当たりにしても、その人たちはこのように「自分たちがこんな災害や疫病に襲われるなんて、ほらやっぱり神様なんていないんだ」と言うと記されています。そんな人間の罪の姿を、黙示録は予言しているんです。
信じない人はどんな証拠を見ても信じませんし、どんな証言を聴いても信じません。むしろ何らかの証拠や証言を提示されると、かえって頑固になったり怒ったりするばかりです。ですからイエス様は、証拠を見て信じるのではなく、見なくても信じる者になりなさいと僕達に教えています。
もうひとつ、この箇所から思わされることは、人は苦しみを「神はいない」という論拠にしがちだということです。「神様がいるならこんな苦しみを与えるはずがない」「神様に祈っても苦しみが取り除かれない」だから神様なんていない、と。しかし、実際に神様を信じているクリスチャンの多くは、苦しみの中で神様の実在と臨在を見出しています。苦しむ自分に寄り添ってくださる神様や、支えてくれる神様に出会っているんです。苦しみの中にあって、その苦しみゆえに神様を否定するのか、その苦しみゆえに神様を見出すのか、ここが信仰の大きな別れ道のように思います。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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