お供物のお菓子はなぜかおいしい。【聖書からよもやま話128】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、  民数記の8章です。それではよろしくどうぞ。

◆民数記 8章11節

アロンはレビ人を、イスラエルの子らからの奉献物として主の前に献げる。これは彼らが主の奉仕をするためである。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

レビ人はイスラエル民族の中で、特に神様に仕えるために選ばれた人たちです。聖書では彼らのことを「イスラエルの子からの奉献物」であると言っています。現代的な感覚だと、人を「物」として献げるなんて昔の人はひどいな、なんて思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし現代でも、クリスチャンは自らの心身を神様へと献げています。特に牧師や伝道師として、生涯を神に献げる人を「献身者」と呼んだりしますが、広い意味では牧師や伝道師にならなくても、神様を信じると心に決めた時点で献身者です。

「クリスチャンは自分の意思でクリスチャンになるのだ」、と思っている方もいらっしゃるかもしれません。でも実は違います。自分の意思が働くのは、神様から「おいで」と呼びかけられて、それにどう返事をするかという点だけです。まず神様から呼びかけてもらわなくては、クリスチャンになることはありません。その点で現代のクリスチャンもレビ人と同じように神様に選ばれた奉献物です。

子どもの頃、家の仏壇にあったお供物を勝手に食べると怒られました。でも時々、「食べていいよ」って言われると嬉しいものでしたし、同じお菓子のはずなのに余計に美味しく感じたりもしたものでした。子ども心に「献げられたものは特別である」ということを感じていたんだと思います。

僕たちクリスチャンも、神様に献げられたものです。もはやこの心身は自分のものではなく、神様のものです。仏壇のお供物を勝手に食べたら怒られるように、この心身を勝手に扱えば怒られます。でもだからこそ、同じ身であっても、この身を、この心を、価値ある物に感じたりもするわけです。自分で自分の価値はなかなか分からないものです。しかし、神様が「これがいい」と自分を選んでくださったということは、それだけの価値があるということです。お供物のお菓子が特別においしいのと同じように、奉献物のこの心と体も、特別なものなんです。自分でそうは思えなくても神様が「これは特別なのだ、格別なのだ」と言ってくださっているんです。

それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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