皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、詩篇の119篇です。それではよろしくどうぞ。
◆詩篇 119篇17節
あなたのしもべに豊かに報い私を生かし
私があなたのみことばを守るようにしてください。
詩篇119篇は聖書の中で最も長い章で、なんと176節もあります。この詩は「アルファベット詩篇」と呼ばれるものの一つで、日本のいろは歌のようにヘブル語のアルファベット22文字を8節ずつ頭文字にして記されています。「22×8=176」ということで、176節なんです。そんなわけで、聖書通読をする時、一つの難関として立ちはだかるのがこの詩篇119篇でもあります。
その内容はと言えば、ひたすら神様を褒め称え、そして「私はあなたの言いつけを守ります!」という強い決意が記されています。しかしそのなかで、この17節のように「私にあなたの言いつけを守らせてください」というようなニュアンスの表現もいくつも含まれています。ここに、信仰生活を送るための大きなヒントがあるように思います。
人間は弱い存在ですから、いくら自分で強い決心をしても、なかなか何かを続けることはできません。何かの基準を守り続けるということも大変です。ダイエットや禁煙を経験したことのある方なら、心当たりがあるのではないでしょうか。
そんな時、「自分が続けたり守ったりするのではなく、神様が続けさせてくれたり守らせてくれたりするのだ」という気持ちを持つと、気が楽になって、必要以上に自分を追い込まずにすみます。
洗礼を受けてクリスチャンになった直後は多くの人が心を燃やして「私は信仰に生きるぞ!」と力強く決意するものです。しかし、自分の決意だけで最後まで信仰生活を続けられる人はまずいません。クリスチャンとしての生活を何年も過ごしていると、誰しも「自分の決意や自分の力での信仰」に限界を覚える日があります。その日が来た時に、この「神様が続けさせてくださるのだ」ということを心に留めている人とそうでない人で、その信仰の危機を乗り越える難易度が大きく変わってきます。「信仰しているのは僕ではない。僕に信仰させている神様がいるのだ」と、「決意のコペルニクス的転換」とも言うべき心構えが、クリスチャンには必要ですし、またこれがクリスチャンの何よりの武器なんです。
たとえるなら、自分自身の決意だけで何かを続けるのは、何もない荒野の一本道を歩き続けるようなものです。しかし、そこに励ましを与えてくれるコーチが一緒にいたらどうでしょう。目を楽しませてくれる景色があったらどうでしょう。途中で体力を回復できる給水所があったらどうでしょう。歩き続けることが喜びになりますし、喜びになれば続けることは苦痛ではなくなりますよね。そんなコーチや景色や給水所を与えてくれるのが神様だということです。
信仰に限らず何事も「自分で成し遂げなければならない」と思うと必要以上のプレッシャーに襲われますし、そのままではそれを続けることはどんどん苦痛になっていきます。しかし「成し遂げるのは神様だ」と思えれば気が楽になりますし、毎日目の前にある一つ一つの現実に冷静に、かつ楽しく向き合えるようにもなります。
何かを続けることに不安を覚えている方、「自分は意志が弱くてダメなんです」と思っている方、ちょっとこの思考法を取り入れてみてください。楽にもなりますし、自信も持てることと思います。何かを続けるのに必要なのは決意よりも楽しむことです。そしてその楽しみを与えてくれるのは神様です。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。