歴史を紡ぐのは英雄じゃなくて書記官です【聖書からよもやま話58】

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エレミヤ書の45章です。それではよろしくどうぞ。


◆エレミヤ書 45章1節

ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたとき、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。

エレミヤはイザヤ、ダニエル、エゼキエルと並んで「4大預言者」と呼ばれるほどの大預言者であり、また「涙の預言者」とも呼ばれます。この『エレミヤ書』とともに『哀歌』の著者もエレミヤであるとされています。しかし、実はこれらの書を実際にペンを使って書いたのはエレミヤではなく、彼の書記官であったバルクという人でした。

バルクはエレミヤが神様から預かって語った言葉(これゆえに「予言者」ではなく「預言者」と呼ばれるのです)を記録して後世に残しました。バルクがいなかったらエレミヤは後世に残らなかったかもしれないのです

似たような関係がギリシア哲学のソクラテスとプラトンの間にもあります。ソクラテスは「哲学なんて興味ないよー」という人でも誰もが一度はその名を聞いたことがあるであろう大哲学者ですが、実は自分では何一つ書物を残していません。彼の名が後世に至るまで「大哲学者」として鳴り響いたのは、彼の弟子であったプラトンが彼の言行を書き記したからです。プラトンがいなければソクラテスの名はおそらく現代には伝わっていなかったんです。

中国の『三国志』だって、そこに登場する英雄自身が記したものではなく、後世の陳寿という人が書き記したものです。三国志の英雄の名前はたくさん覚えていても、陳寿の名前を覚えている人はそれほど多くはありません。しかし陳寿がいなければ現代に『三国志』が残ることもなかったんです。

何かをする人と、それを記録する人は時として異なるものです。世界には何かをする人が必要なのはもちろんですが、それを記録する人も必要なんです。記録する人の名前が後世に広く知れ渡ることはないかもしれません。しかし、もしそういう人がいなければ、現代にまで残る様々な歴史はもっとスカスカのつまらないものになっていたでしょうし、僕たちが「歴史から学ぶ」ことも、ずっと少なくなっていたかもしれません。

神様はエレミヤだけでなく、バルクにも直接語りかけています。その語り掛けが、今日の箇所から始まるエレミヤ書45章なんです。神様は歴史の影に隠れた「縁の下の力持ち」を軽視することはないんです。神様からすれば、何かをする人も、それを記録する人も、等しく愛おしい存在なのだと思います。

たとえ人から注目されなくても、神様には誰しも注目されているんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。


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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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