皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、出エジプト記の15章です。それではよろしくどうぞ。
◆出エジプト記 15章24節
民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
今日の箇所はあの有名な「モーセの海割り」の直後のシーンです。神様の「海をまっぷたつにする」という劇的な奇跡によりファラオの軍勢の追撃から逃げ延びたイスラエルの民ですが、そのわずか3日後にはもう、神様に文句を言い出したんです。曰く「喉が乾いたー!」。
はい、そればっかりは確かに仕方ないですよね。人間、3日くらい食べものはなくても生きられますが、水がなければ生きられません。そりゃ、神様に「喉が乾きました」と訴えるのももっともです。しかし、ここには「不平を言った」と書いてあります。喉が乾きましたと訴えたのではなく、不平を言ったんです。あんな劇的なシーンを目にしたわずか3日後に、その奇跡を起こした神様に文句を言ってしまっているんです。なんと信仰の薄い、かつまた薄情な人たちでしょう。
・・・なんて僕には言えません。だって喉が乾いているのですもの。どんなに素晴らしい愛を示されたって、水がなければ喉が乾いてしまうのが人間です。そして喉が乾くというのは生命が脅かされているということですから、その訴えが激しめになる気持ちもわかります。「生命の危機」という脅威に対しては、どんな喜びもそれを覆い隠すことはできないんです。いや、中にはそんな時にでも神様を信頼して喜び続けることができる人もいるかもしれませんが、そんな人はごくごく少数派で、それこそ「聖人レベル」の方々です。凡人には難しいですし、少なくとも僕には無理です。
たとえばオリンピックで金メダルをとるだとか「人生で一番嬉しいできごと」の直後でも、飲む水がないとか食べ物がないとかの事態に陥ったら、人はなかなか機嫌良くはいられないでしょう。心を満たす喜びよりも、肉の必要を満たす水や食べ物の方が優先されてしまうのが人間の偽らざる姿です。どんなに大きな喜びの後でも、人間には日々の生活と必要があり、それが満たされなければ不満を抱くんです。
聖書は本当に自分を映す鏡のような書物だと思います。僕も、今までに大きな神様の愛をいくつも体験してきましたが、その後に飢えや乾きに襲われたら、神様に不平を言わない自信はありません。この直後のシーンで神様はちゃんと水を与えてくださったのだということを、聖書を読んで知っているのにもかかわらず、です。ましてまだ聖書がない当時のイスラエル人たちが不安と不平を抱くのは、無理もないことだと思います。
喜びは肉体の苦しさを前に、いとも簡単に消えてしまう。はかない。せつない。でもだからこそ、喜びは愛しいですし、大切にしなければいけないと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。