【連載小説】月の都(45)下田ひとみ

 

志信は混乱し、心が乱れていたが、しかし強いて心を整え、紘子に向かった。

「滝江田がどうして洗礼を受けたのか、その理由について、今まで私も考えました。自分なりに答えを出してみたりもしました。けれど、あなたのお話を伺って、私が出した答えは間違っていたかもしれないと、今は思います。だからといって、復讐だったかもしれないというあなたの考えを肯定するわけではありませんが。

これは一番考えにくいことですが、もしかしたら単純に、滝江田はキリスト教を受け入れた、だから洗礼を受けたという答えも、可能性としてありうるのだと思います。

本当の答えはわかりません。けれど、我々はおそらくそのことに固執(こしゅう)するべきではないのです。それがいかなる理由によってなされたことであっても、滝江田が決断したことなのですから、その事実を厳粛に受けとめる、そういう心の態度を持つというのが、肝心なことなのではないでしょうか」

話しているうちに落ち着いてきた。

志信は背筋を伸ばして言った。

「ただ、私にわかるひとつのことだけは、滝江田のために、あなたに説明しておきたいと思います。あなたが洗礼のことを打ち明けた時、滝江田がそのわけを尋ねなかったのは、わかっていたからです。あなたがキリスト教に純粋に惹(ひ)かれ、ついには信仰に目覚めたことが、滝江田にわかっていたからです。

そんなあなたに向かって、無神論者の滝江田が何か言えますか。滝江田にとっては、それはショックなことだっただろうし、あいつはそのことで苦しんだでしょう。しかし、たとえ夫婦であっても、それは立ち入ってはならない領域だ。滝江田はあなたの人格を尊重し、あなたを大切に思っていた。だからこそ尋ねなかったんです」

窓の外のアカシアが雨に打たれて霞(かす)んでいた。

静まり返った部屋を雨音だけが満たしている。

「わたくし……大きな思い違いをしていたのかもしれません」

紘子が震(ふる)える声で言った。

「苦しんでいるのは自分だけだと……。そういうふうに考えてみたことは一度も……。滝江田は強い人でしたから」

両手で顔を覆うと、紘子は泣き始めた。

「わたくしは……もっと弱音を吐けばよかった。みっともないところを……見せればよかった。本音をそのまま……あの人に……ぶつければよかった。夫婦なんですから……」

志信は紘子から眼を逸(そ)らせ、暖炉に視線を移した。

紘子を赦(ゆる)せないという思いと志信は闘っていた。

赦せない。

赦さない。

赦したくない。

そして、何も気づかないでいた己をもまた、志信は赦せないのだった。

燃え上がる暖炉の炎を志信は見つめ続けていた。

ついに思いは膨れ上がり、言葉となってほとばしり出た。

「あなたは馬鹿です!」

ドアの外でふみが聞いていた。お茶のおかわりを持ってきて、部屋に入るきっかけがつかめずにいたのである。

寒い廊下で、盆に茶をのせたまま、ふみは泣いていた。(つづく)

 月の都(46)

下田 ひとみ

下田 ひとみ

1955年、鳥取県生まれ。75年、京都池ノ坊短期大学国文科卒。単立・逗子キリスト教会会員。著書に『うりずんの風』(第4回小島信夫文学賞候補)『翼を持つ者』『トロアスの港』(作品社)、『落葉シティ』『キャロリングの夜のことなど』(由木菖名義、文芸社)など。

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