「私たちの教会は今、映画館を借りて主日礼拝をささげています」。ある時、中国の家庭教会に集う一人の姉妹からそう聞いた。「映画館ですか?」――半信半疑に問い返した。「はい、音が大きくても映画館ですからまったく問題ありませんし、むしろ礼拝の場としては整えられた環境と言えるかもしれません」。なるほど。確かに。そう思った。その時、自らの記憶をたどってみた。そういえば、以前、ニューヨークのマンハッタンで友人牧師が導いていた教会も日曜日の午前中に映画館のシアターを借りて礼拝をささげていたことを思い出したのだ。「ただ、一つだけ難点がありまして」――前述の姉妹は続けた。「椅子があまりにも心地よくて、睡魔に襲われることが多々あるのです」。想像してみると、確かにそうかもしれない。笑みがこぼれた。
この1年、中国の都市部にある家庭教会は大きな困難に直面している。それは、礼拝の集会場を失いつつあるということだ。今までは普通のアパートの一室を借りて教会の礼拝を行っていた。しかし、特にこの1年間、隣近所からの想像以上に強い反発と圧力がかかり、常に引っ越しを迫られる状況に追い込まれてしまっているというのだ。これは従来の政府機関からの圧力ではなく、一般市民の、その地域に居住している人たちからの圧力に変わってきているということになる。
確かに、若者が多く集う家庭教会などでは、活気にあふれた雰囲気のもと、賛美の声も必然と大きくなっていく。それが毎週日曜日に、しかも午前午後と、下手すると夜までも続くとなると、近所からのクレームが出てしまうのも想像がつく。競争社会に揉もまれながら必死に生き抜こうとしている若者たちにとっては、教会での礼拝や集会が刹那のオアシスになっていることを考えると、必然的に声のトーンが上がってしまうのも責められない。しかし、だからといって、退去するように促され続けるのも相当なストレスと緊張感を抱くことになり、心労が続く状況にあることは容易に想像できる。
しかし、彼女たちはたくましい。編み出された対策法は映画館や商業施設、日曜日には人の出入りがほとんどない会社の一室などを利用して行われる礼拝形式である。実はこれは、経済が停滞気味の今、貸し出す側にとっても有益となり、いわゆる「ウィンウィン」(相互利益)の関係が構築されつつあることになる。時間帯で賃貸料金を支払う。教会は自分たちの「場所」を保持するのではなく、今週はここ、次週はまた別の場所と、週ごとに変わる流動式の教会を実施している。これは教会財政においてもプラス要因となっていることは間違いない。
さらに、人数制限のために、オンラインでの同時配信を取り入れる家庭教会も増加している。このようなハイブリッド型の礼拝形式は、コロナ禍を経て、世界的に定着しつつあると思うが、中国においてもそれは例外ではない。スマホネイティブの世代が中心となり、置かれた場所の環境に見事に適応しているたくましい姿がここにも見られる。
規模が大きめの家庭教会では、月に一度、対面式で集まり、その他の主日はオンラインや各小グループで集まるという形態もとられているとのことで、ここにもさまざまな方途を用いての宣教の現実が描き出されていることが分かる。
冒頭の姉妹は続けた。「私たちはいかなる状況に置かれても、礼拝を続けたいと思います。場所は問題ではありません。ともに主なる神を礼拝できればそれでよいのです」。多くのことを考えさせられる言葉である。礼拝の場所が固定されないことの課題、また、オンラインでの交わりでの身体性の課題など、さまざまな要素と直面しながらも、彼女たちは今日もまた宣教のわざに勤しんでいる。「ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう」(ヘブライの信徒への手紙10章25節=聖書協会共同訳)。
今回聞いた話は、ごく限られた話ではあるが、ますます、中国の教会のために祈らねばと思わされた。
遠山 潔
とおやま・きよし 1974年千葉県生まれ。中国での教会の発展と変遷に興味を持ち、約20年が経過。この間、さまざまな形で中国大陸事情についての研究に携わる。国内外で神学及び中国哲学を学び修士号を取得。現在博士課程在籍中。