キリスト新聞社の創刊80周年と、佼成出版社が運営する「ちえうみ」の3周年(佼成出版社60周年)を記念したコラボ企画、シリーズ「宗教と社会の対話〈問いを旅する〉」の第3弾「宗教×AI×精神医学 魂はデータに還元できるか――知性・意識・祈りをめぐる問い」が10月23日、浄土宗大蓮寺塔頭應典院(大阪市天王寺区)で開かれた。北海道・札幌で宗教と福祉、地方創生を、広島で宗教とサブカルチャー、世界平和をテーマに語り合った第1弾、第2弾に続き、今回は急速に進化する生成AIを前に、宗教者に求められる役割や「人間らしさ」の意味を問い直した。
登壇したのは、僧侶・宗教学者の釈徹宗氏、精神科医の名越康文氏、AIコンシェルジュの脇屋国継氏。「キリスト新聞」編集長の松谷信司が進行を務めた。かつて聖書学者を志していたという脇屋氏は関西学院大学神学部、東京神学大学大学院で学び、現在はAI関連企業で生成AIの教育・活用支援に携わる。仏教、精神医学、キリスト教神学、AIの実務という異なる立場から、技術の可能性と限界をめぐって議論を交わした。
今回のテーマを提案した釈氏が冒頭で紹介したのは、身近で起きた二つの出来事。一つは、娘を亡くした女性が寺の本堂を訪れ、僧侶との対話を重ねる中で、「本当に苦しい時に一番頼りになったのはGeminiでした」と語ったこと。もう一つは、深刻な精神的不調を経験した落語家がラジオ番組で、人間の支援者には遠慮してしまうことも、生成AIになら気兼ねなく打ち明けられ、どこまでも付き合ってもらえたことが支えになったと話していたことだった。
キリスト教系高校で宗教科を担当する教員からも、生徒たちが当たり前のように生成AIに相談するようになった現状を踏まえ、「宗教者としての役割は変わるのでしょうか」と問われたという。釈氏は、こうした経験が相次いだことから、AIと宗教者の関係を改めて考える必要を感じたと説明。釈氏は、AIが現実に人々を支えていることを認めた上で、これまで宗教者が担ってきた「寄り添い」や「傾聴」の意味そのものが問い直されていると指摘した。
これを受け、脇屋氏は「説教と説教原稿は違う」との言葉を紹介。生成AIが普及し始めたころ、試しに説教原稿を作らせると、驚くほど整った文章ができあがった。そのことを神学教育に携わる教員に話した際、返ってきたのがこの言葉だったという。原稿が作れることと、説教が行われることは同じではない。誰が、どのような思いで、誰に向かって語るのか。そこで生じる関係性や、言葉を聞く人の状況を無視することはできない。ただし脇屋氏は、AIが作った文章だからという理由だけで、そこに神が働く可能性まで否定することもできないとした。生成AIが関わった言葉を通して聖書に触れ、生き方を考え直す人もいるからだ。
一方、AIが実在しない聖書の言葉や典拠をもっともらしく示す「ハルシネーション」の危険性にも触れた。釈氏らも仏典の引用について、誤った説明を受けた経験を紹介。脇屋氏は、誤情報に「神の言葉」という権威まで与えてしまえば、単なる情報の間違いでは済まなくなると警鐘を鳴らした。
脇屋氏は生成AIを、便利さと引き換えに人間が自ら考え、吟味することを手放しかねない「悪魔の贈り物」にもたとえた。重要なのは使用するか否かの二者択一ではなく、何を委ね、何を委ねないかを自分自身で判断することだという。
これに対して釈氏は、知識や情報の提供ではすでにAIに太刀打ちできない部分があると認めつつ、祈りを持つ人間の言葉との違いを考える鍵として「身体性」を挙げた。本尊やろうそく、線香の香りに包まれた空間で、人生経験を重ねた人間が語る言葉には、情報だけでは伝わらないものがあるという。引きこもり経験をたどたどしく語る学生の法話が、聞き手の心を動かした例も紹介した。
また、ホスピスで苦しみを語る人に寄り添い、長く沈黙を共にした宗教者が、後に「あの時間が一番救われた」と告げられた逸話を紹介。「ずっと正しいことを言われても、別に救われない」と述べ、言葉にならない苦しみに寄り添うことの意味を強調した。
一方、名越氏は、AIと人間を対立させる発想そのものに疑問を呈した。自身も日常的にAIを活用し、膨大な知識を整理したり、専門領域を越えて調べたりする便利さを実感しているという。AIが人間にできないことを担うようになったからといって、それを敗北と受け止める必要はない。むしろ「それなら自分には何ができるのか」と考え、新たな可能性を見つけていけばよいと語った。
名越氏が繰り返し重視したのは、人間が自らの思考の枠組みを越えて成長することだった。AIに答えを求めるだけでなく、問いを立て、試行錯誤し、失敗を引き受ける。長い時間をかけて答えにたどり着く経験そのものが、人間にとっての喜びや成長につながるとした。また、落語家が舞台に現れただけで笑いが起きる独特の「フラ(持ち味)」を例に、情報や言語だけでは説明できない人間の存在感にも触れた。
議論では、人間がAIに人格を感じてしまうことへの注意も共有された。釈氏は、人間には無生物にも顔や意志を見出し、人格化する傾向があると説明。名越氏も、石を御神体として受け止める日本の宗教文化などを例に、AIとの関係を考えた。人がAIに親しみを感じること自体は自然な一方、その応答をそのまま自律した人格の表れとみなしてよいのかは、慎重に考える必要があるとした。
AIによる相談や支援の広がりは、教会や寺院のあり方にも影響する。松谷氏は、信徒同士の密接な関わりを重視する教会の文化が、時として負担になる人もいると指摘。名前や事情を明かさず、誰にも気兼ねなく相談したい人にとって、AIの適度な距離感はむしろ魅力になり得る。
脇屋氏も、AIは24時間利用できる便利な道具である一方、人間同士の対話まで効率化によって失われることには危機感を示した。自身が関わるAIコミュニティでも、参加者が実際に顔を合わせる交流の場が大きな活力になっているという。AIの活用が進むほど、対面で交わされる言葉や人と人とのつながりを大切にする必要があると述べた。
質疑応答では、AIが将来、精神的な不調を抱える人を医療につなぐ役割を担う可能性も話題となった。名越氏は、相談へのアクセスのしやすさやデータ分析の能力から、必要な支援を見つけることへの期待を表明。釈氏も、宗教施設へ足を運ぶよりAIに相談する方がはるかに容易である現実を認めた上で、宗教界には、人が身を置ける場所を丁寧につくり、足を運びやすくする取り組みが求められると話した。
シリーズ最終回は2027年2月27日、東京・蒲田の日本福音ルーテル蒲田教会で開催予定。「推し活」をテーマに、誰かを推すことと何かを信じることの関係を考える。札幌、広島、大阪に続き、現代社会における宗教のあり方を異なる角度から問い続けるシリーズの締めくくりとなる。
