最近、新聞やテレビで自死の問題がしばしば取り上げられるようになった。おそらく大部分の人びとは、自死という言葉を聞けば、身近に経験した自死の出来事を思い起こして、こころを痛めるのではないだろうか。自死は決して珍しいことではない。常に身近なところで起こり得る出来事である。時には、きょうだいであったり、我が子であったり、親しい友人であったりする。親しい間柄であればあるほど、こころの痛みは大きい。
なぜ、あの人は自らの命を断たねばならなかったのか。問えば問うほどに、重たい思いがこころを抉(えぐ)る。直接的な動因は分かるかも知れないが、本人の心底に何があるかは、誰も知らない。本人は、できることなら生きていたかったであろう。しかし、本人が願う生への扉はどの扉を開けても生へと繋がらなかった。生への扉がすべて閉じられるならば、死に向かう扉を開く以外に道はない。それは極めて消極的な選択に見えるが根底には生きようとする意図があったことは否定できない。
自死の問題は、人間の知恵で計り知れないところがある。当事者を身近に知る人が「どうしてこんな事に……」と嘆くのを聞くことがある。少しずつ事情を知るに付け、本人の中では生きるか死ぬかの葛藤があったことが明らかになる。しかし、葛藤から来る緊張に耐えきれず、やがて事を起こすに至る心的プロセスは、周辺の人のみならず、本人にさえも分からない。ある時、筆者の専門を知って、自死した人の身近にいた人がやって来たことがある。「どうしてこんな事に……」の問いに答えを求めてのことであった。筆者は、そのような問いの前では心理相談の専門家であるより、一人の信仰者として「当人のすべてを知る存在は神のみです。神はすべてを分かっておいでです。」と答えた。それ以上の答えはないからだ。相談に来た人からは「私は、なぜあの人が事を起こしたのか、理由を知りたいと思ってきた。言われるように、神さまは分かっておいでになる。それが一番慰めになりますね。起こった理由をいろいろ探している時は、悲しいやら、口惜しいやら、腹立たしいやらで、苛立たしい気持ちでした。でも神さまはご存じと聞くと心が安らぎます」と返事が返ってきたことを今でも覚えている。
死については、信仰の言葉は魂をゆさぶるような慰めに満ちている。ルターは「キリスト者は、死へ向かうのではない。キリストに向かうのである」と言い、「キリスト者は自然に死を迎えるのであってはならない。死を自分の目前に引き寄せて生きねばならない。それによって罪が完成し、キリストによる救いが成就する」と言う。果たしてこれは、信仰者のみに通用する言葉であろうか。キリストはすべての人のために救いの手を差し伸べてくださるのではないのか。だとすれば、自死者もまた、死を通してキリストによる救いに与ると言えないであろうか。
幸いにして聖書の世界には、死と生の間の断絶がない。神は生ける者の上にも、死せる者の上にも主でいます。だからこそ、自ら命を断った者も、また残された者も主のもとにある。そこにこそ、人びとが求める究極の慰めではないだろうか。