思い出の杉谷牧師(3)下田ひとみ

 

3 見ると聞くでは大違い

その2年前、伝道師時代に、やはり伝道師であった今の奥さんと結ばれる。先生の新婚時代には、ちょっとしたエピソードがあった。
結婚して数日後のこと、先生は奥さんからいわれたそうだ。
「見ると聞くでは大違い」
先生はこの言葉がよほどこたえたらしく、結婚式の説教では、必ずこのことが話に出た。
「私も家内から結婚後数日にして、『見ると聞くでは大違い』といわれた人間です」
そして話は、「結婚生活というのは、『こんなはずではなかった』の連続なのです」という、いつものくだりになっていく。
結婚式のたびごとにこの話が繰り返された。
初めて教会を訪れた式服姿の参列者たちは、厳粛な面持ちで先生の話を聞いている。慣れっこになっている私たち信徒は、可笑(おか)しくてたまらない。
先生が壇上に立って、「えー」と始めると、今か今かと私たちはそれを待つ。
話の中頃、時には終わり頃、ついにこの言葉が出る。そうすると私たちは、やっぱり出た、という顔を見合わせて、クスリと笑うのだった。

先生の奥さんは正直で気取りのない人柄だった。
ある日、信徒の人たちとお茶を飲んでいる時に、先生の前で奥さんがこぼした。
「主人はねえ、いわんと何にもせんでなあ。着るものだって、いわんと毎日同じものを着てるし、食べるもんだって、いわんとちゃんと食べないんだが」
これはそのとおりだった。
日曜の礼拝以外の時の先生は、袖口(そでぐち)が擦(す)り切れ、肘(ひじ)がてかてかに光った同じ洋服を無頓着に着ていたし、奥さんが何日か留守をした時、私たちが食事の心配をすると、
「わしはな、芋(いも)さえあればいいの。芋さえあれば1週間でも2週間でも平気なの」
こういって笑っていた。
「それにねえ。お風呂になかなか入らんでねえ。これはいっても入らんから、本当に困るんだが」
「どうしてお風呂が嫌いなんですか」
私たちは不思議に思って、そばで困ったような照れ笑いをしている先生に尋ねた。
「いや、嫌いなわけじゃないよ。ただ風呂に入ると、すっかりくつろいでしまってなあ。もうあとは、布団を敷いて寝たいだけになってしまう。それが怖くてなあ。いつどんな電話がかかってくるかしれん。夜中でもどんな人が訪ねてくるかわからん。そんな時、さっと起きて行こうと思ったら、身体を全部休ませとったらいけん。起き上がれんようになってしまう。牧師たる者、神様の御用をするように、いついかなる時も身構えていなくちゃ」
茶目っ気のある笑顔で先生はつけ加えた。
「牧師は24時間営業だ」
「まあ、かっこいいこといっちゃって」
お茶を飲みながら奥さんがキメた。
「ただの不精なんじやないの」

笑い話の一つにこんなこともあった。
先生が佐伯さんという求道者の家を初めて訪問した時のことである。
87歳になるキミさんというおばあちゃんがその家にいた。キミさんは某宗教の熱心な信者だったが、玄関に立っている先生を見て、満面の笑顔で客間に案内をした。
佐伯さんがきて、先生との問答が始まった。佐伯さんもキミさんと同じ宗教を信仰しており、改宗の問題で悩んでいたのである。
佐伯さんの悩みは深刻だった。先生の対応にも力が入る。
1時間が経(た)った。その間キミさんは畳(たたみ)に座り込み、先生を食い入るように見ていた。先生はキミさんが熱心に話を聞いているのが嬉(うれ)しかった。
やがて話が一段落し、先生はキミさんに声をかけた。
「お話はおわかりになりましたか」
キミさんは小首をかしげ、困ったような顔をした。実はキミさんは耳が遠かったのだ。
「お話はおわかりになりましたか」
「あんたは男前ですなあ」
こんなとんちんかんな出会いだったが、以来キミさんは先生の訪問を心待ちにするようになった。
やがて教会へ通い始め、集会にも時々出席をするようになった。
洗礼を受けるまでには至らなかったが、
「うちが死んだら杉谷先生に葬式をしてもらって」
というのが、家の者への口癖となった。(つづく)

 






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