シグニス平和賞で晴佐久神父と谷津監督が対談、中村哲医師の生き様を伝えていきたい 

8年ぶりとなるシグニス平和賞(シグニス・ジャパン〔カトリックメディア協議会〕主催)は、2019年12月、アフガニスタンで銃弾に倒れた医師・ 中村哲さんの現地活動の軌跡を追ったドキュメンタリー『劇場版 荒野に希望の灯をともす』(制作・配給:日本電波ニュース社)が受賞した。6月23日、神楽座(東京都千代田区)で開催された授賞式・上映会の中で、映画監督の谷津賢二氏と晴佐久昌氏(シグニス・ジャパン顧問司祭)が対談を行った。

「病気を治す前にまず、水が必要だ」と、医師の白衣を脱ぎ、自ら重機に乗って枯れ果てたアフガニスタンの大地に用水路を作った中村医師。その用水路により救われた命は65万人以上にもおよぶ。『劇場版 荒野に希望の灯を灯す』は、中村医師の生き様を20年以上追い続け、約1000時間の映像素材を元に制作されたドキュメンタリー映画だ。

晴佐久昌英氏(写真左)と谷津賢二氏(写真右)=6月23日、神楽座(東京都千代田区)で。

晴佐久:中村医師のドキュメンタリーを撮ることになったきっかけを教えてください。

谷津:きっかけは、先輩から勧められた中村医師の著書『ダラエ・ヌールへの道』(石風社)です。私は学生時代から登山をやっていたこともあって、中央アジアとか辺境で取材をすることが多く、アフガニスタンとあったので興味を持ちました。読んでみると、中村医師のやっていることの凄さと、それを的確に捉える文章力の上手さに驚き、この人をぜひ取材したいと思いました。

晴佐久:初めてお会いしたときはどういう印象でしたか。

谷津:本を読んだ印象では、雄々しい医師という感じだったのですが、実際は非常に小柄でボソボソ話されて、イメージとはだいぶ違っていました。その頃はまだ井戸掘りはやっていなくて、ヒンズークシュ山脈で行っている巡回診療の取材に同行させてもらいました。馬に乗って行くのですが、率直に言って、その姿は半分寝たような冴えないおじさんなんですね。目的地に着いても誰もおらず、「谷津さん、待ちましょう」と言って草の上にゴロンとなって寝てしまう。これでドキュメンタリーが撮れるのかと正直不安になりました。

それが浅はかな考えと分かったのが翌朝です。早朝、ドクターが来ていると聞きつけて山の方々から老若男女が集まってきました。撮影の準備を始めて外に出ると、中村医師はすでに診察を始めていて、その顔を見て驚きました。目には力が入り、口はへの字にぎゅっ結ばれ昨日とは全く別の顔になっている。それを見たときに、この人はとてつもない人なんだと強く感じました。

また、山の民が、診察のお礼にとお茶を淹れて持ってきてくれるのですが、中村医師はそのお茶を口に含み「おいしい」という顔をする。それを山の民が見てニコニコしている。そこには、目には見えない、非常に温かで、お互いを敬愛し合う強い絆があり、カメラを置いてずっと眺めていたいと思うほど美しい光景でした。

晴佐久:中村医師は、カトリックの価値観である「普遍主義」に生きていた人だと思います。イエス・キリストに最も近いキリスト者だったのではないかと。

谷津:言葉とか宗教とか関係なく、必ずお互いが理解できるものがあると信じている。それは、人間が持つ真心とか、良心とか、信頼とか、希望とかといったもので、それらをアフガニスン人やパキスタン人の中に見ていたし、彼らも中村医師の中に同じものを見ていました。中村医師には、人間が根源的に持っている良心を目覚めさせる力があって、それを生き様で示されたのではないでしょうか。

対談は手話通訳も交えて進められた。

晴佐久:モスクの完成を祝って、中村先生をイスラム教徒の人たちが担ぎ上げるシーンは象徴的ですね。宗教を超えた共通する良心や信頼に満ちあふれ、そういったことが世界を平和にしていくという印を見ているようでした。このシーン、よく撮影されましたね。

谷津:私もあのシーンは大好きで、撮れてよかったと思っています。メディアとかのバイアスにかかるとキリスト教者とムスリムは対立するとかになってしまうのですが、実はお互いを敬愛し合っていることを取材をする中でたくさん見てきました。

晴佐久:用水路に水が流れる瞬間も、何度見ても感動で泣けてきます。あの映像が撮れたのはまさに奇跡ですね。

谷津:1998年4月に初めて取材に行き、2019年5月が最後の取材でした。21年間アフガニスタンやパキスタンへ渡航したのは25回、合計滞在日数は約450日にもなり、撮影映像は1000時間におよびます。このような長い時間をかけたからこそ、奇跡的なシーンも撮れたのだと思います。

ドキュメンタリーは、普通は「この辺でこういうことが起こるだろう」と予測・調査した上で撮るのですが、アフガニスタンやパキスタンは治安が不安定な地域が多く、中村医師が「今なら来ても良い」と判断してくれた時にしか現地取材に行けませんでした。そのため、現地に行けたタイミングで撮影するというスタイルだったので、ドキュメンタリー映画を撮っていたというよりも、中村医師の映像記録を撮っていたというのに近いと思っています。

晴佐久:中村医師が亡くなったと聞いた時はどうでしたか。

谷津:真っ先に思い浮かんだのは、我々の無責任さということです。我々がもっとアフガニスタンに関心を寄せていれば、もう少し治安が良くなったのではないか、それを中村医師一人に責任を背負わせてしまったのではないかという思いが頭を巡りました。その時は喪失感とかはなかったのですが、その晩家に帰り、スマートフォンの中に入っている中村医師の写真を見て、亡くなったことを実感し涙があふれてきました。

満席の会場で、2人の話に耳を傾ける来場者。

晴佐久:用水路は現在どのようになっていますか。

谷津:昨年12月に3年半ぶりにアフガニスタンに行くことができ、用水路を見てきました。今でも地域の人たちから大切に守られ、粛々と水を運んで人々の命を守っています。中村医師が作られた用水路は人格があるかのように美しいんですね。用水路沿いには柳が茂り、たくさんのアフガニスタン人がお茶やお菓子を食べていて、目が合うと「お茶を飲んでいけ」と言ってくれる。中村医師の側にみんなが集まって語り合っている、そんな風景がありました。

自分が本当に幸運だなと思うのは、中村医師の側にずっといられたことです。中村医師が、何を見つめて、何を考えて、何を残したのかを伝え続けることは私の責務だと思っています。今世界では分断や孤立ということが起きていますが、中村医師の映像を見ていると、あなたは他者とどう関わって生きるのか、他者のためにどう生きるのかと問われているような気がします。

他者のために生きることは、口で言うほど簡単なことではありません。それでも中村医師の生き様である利他に生きることこそが、今の日本または世界で我々が生き延びていけるヒントではないかと思っています。そんなことを思いながら作った映画です。

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