カナダ在住の被爆者で反核運動家、サーロー節子さん(86)による講演会「被爆者として北米に生きて」(主催:国際文化会館)が4日、東京・六本木にある国際文化会館岩崎小彌太記念ホールで行われ、約200人が集まった。
サーローさんは1932年、広島市生まれ。広島女学院高等女学校2年生だった13歳のとき、爆心地より1・8キロ離れた学徒動員先で被爆。48年12月に日本基督教団・広島流川教会で、平和活動家である谷本清牧師から洗礼にあずかった。広島女学院大学英文学部を卒業し、54年、米国に留学。翌年、カナダ出身の関西学院の英語教師と結婚して、カナダに永住することになる。
トロント大学で社会福祉事業の修士号を取得し、65年からソーシャル・ワーカーとしてトロントの教育や医療の分野に従事しながら、原爆にまつわる自身の経験を証言し続けてきた。昨年12月、ノーベル平和賞を受賞した国際NGO「ICAN」(核兵器廃絶国際キャンペーン)の中心的な貢献者として、授賞式では被爆者として初めて演説を行った。
サーローさんにとっての原爆の象徴は、原爆で体中が火傷で腫(は)れ、肉のかたまりのようになり、「お水をちょうだい」という言葉を残して亡くなった4歳のおい。遺体は山に掘った穴に入れられ、無造作に焼かれたが、「まだ腹や脳みそがよく焼けてないぞ」というその時の声を今でも覚えているという。涙も出なかった。感情がまひしていたのだ。原爆では、その母親である姉や、351人もの同級生も失った。
「広島・長崎の原爆について、亡くなった人たちを数にして語りがちですが、一人ひとりに名前があり、それぞれ誰かに愛されていました。貴重な命が無差別に奪われていったのです。生き延びた人たちも、身体的・精神的な苦しみに耐えてきました。特に戦後12年間、中央政府は何も助けてはくれず、進駐軍に至っては、自国の科学の発展のための研究材料としてしか見ていませんでした」
52年に日本の主権が回復されると、ようやく原爆についての情報が流れ込んでくるようになり、原爆投下をグローバルな観点から見直す動きが出てきた。そこでサーローさんたちは原爆投下の意味について知るようになる。そこには、戦争を早く終結させるためだけではなく、政治的な理由があったのだ。サーローさんは苦しみながらも生き延びたことの意味について次のように語る。
「多くの苦しみを負った被爆者たちは、同じことが起こらないよう、世界に対して語り続ける道義的な責任があります。原爆の危険を伝えることは被爆者の使命です。我々が世界各国で声を上げ、世界が安全で正義あふれるものとなり、未来の世代に受け継いでいかなければなりません」
サーローさんは、ソーシャル・ワークの勉強をするため、奨学金を得て米国に留学した。それは、焼け野原で孤児になった子どもを支援する教会の牧師や大人たちの行動を見て、「自分も人を助ける人間になりたい」と思ったからだ。
米国に着いたのは、ちょうど太平洋のビキニ環礁で大規模な水爆実験が実施された時だった。その成功に米国中が湧く中、現地のメディアから取材を申し込まれた。「米国はとても非人道的なことをした」と答えると、「奨学金をもらっているくせに。日本に帰れ」、「真珠湾を思い出せ」などのバッシングを受けた。恐怖から「何も語らないほうがいいのか」と悩んだが、道徳的な責任を思い起こし、語り続けることを決心したという。
「米国人は、広島や長崎の原爆を正当化する政府を信じきっていました。それはあたかも戦時中の日本の姿を思い起こさせ、背筋が凍(こお)りました」
その後、カナダでソーシャル・ワーカーとして働くようになったが、まわりは原爆について関心がなく、原爆を開発したマンハッタン計画のことも知る人は少なかった。サーローさんは教育の中で原爆について教えていくよう制度改革に取り組み、その結果、各高校に広島・長崎のことが広まり、日本の生徒も招くことになった。このことはNHKとカナダのCBCが放送し、原爆について目に見えるかたちで伝えることに成功した。また、84年にはトロント市が市制150年を記念して市役所前に平和庭園を作り、広島から平和の灯、長崎からは川の水をもらい受けた。
サーローさんは、カナダや米国にも被爆者と共に立ち上がってくれる献身的な人が大勢現れたことを伝え、このように話す。
「70年にわたる努力の結果、昨年、核兵器禁止条約が国連で採択されました(この条約の推進には、2007年に核戦争防止国際医師会議から独立して結成されたICANの貢献が大きいとされ、ノーベル平和賞を受賞した)。私はその瞬間に立ち会えるとは夢にも思っていませんでした。やるべきことはまだまだあります。次はこの条約を確実に発効させることです。50カ国が批准すれば発効できます。原爆は、人類にとって最大の悪です。核兵器を完全に廃絶させるためにアクションをとっていただきたい。そして、一人ひとりができることをしていけば、政府を動かすことができます」
国際協力に関わる活動をしているという女性(30代)は次のように感想を語った。「サーローさんがカナダで無関心な人たちをどう巻き込んでいったのか、とても興味深かったです。同じ土台に立ち、同じ目線で語ることは実際には非常に難しいことなので、本当に素晴らしいと思いました」