創世記の最初の五節は、牧師の仕事にとって、特に「霊的な形成」という課題領域にとって、一つのパラダイムを提供している。「無秩序と空虚」という素晴らしい表現がある。それは無秩序を意味している。 ―― そのような無秩序と混沌の中で神の御霊が働き始める。ゆっくりと時間をかけて、そして神の創造と契約がその中で立ち上がる。光、形、植物、動物、人間、そして愛、希望、キリストが無秩序と混沌の中に立ち上がってくる。わたしはかつて神学生の集いで、牧師の中で、一番好きなことは「無秩序だ」と話したことがある。わたしが言いたかったのは「無秩序が好きだ」ということではない。「無秩序の中にいる感覚が好きだ」ということだ。希望を抱き、神が実にゆっくり、ゆっくりと時間をかけて創造の御業を開始していることを知って、いつも驚くようなことを神がしてださるのを了解している。神による創造も創造的な働きも、わたしたちが考えるようには効果が表れない。常に想定外なのである。「創造的」という言葉は「何か新しいこと」とつなげて定義されている、もし結果がどうなるかをわたしたちが知っているのならば、わたしたちは職人か、流れ作業に従事する労働者か、あるいはある種のマネージャーだろう。ただしその場合、わたしたちは創造的ではなくなってしまう。
わたしたちはまだ、物ごとをはっきりと見ているのではない。霧の中で目を凝らしている。蒸気に包まれてことを凝視している。しかし、霧が晴れ太陽がさんさんと輝く日が来るのは、もうそう遠くない筈だ。その時には全てを見ることになる。神がわたしたちを見るようにはっきりと見るようになる。神がわたしたちを知るのとまったく同様に、わたしたちも神を直接知るようになる!
―― コリントの信徒への手紙(一)13章12節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。