ゴリアトと戦うために、ダビデはサウルの鎧(よろい)・兜(かぶと)を着ることを拒否した。
これは「エラの谷」の情景である。専門家によって固められている領域に素人が踏み込む時、この「エラの谷」で起こったことがしばしば起こる。素人のわたしたちを気遣う人々は、わたしたちの周りで、急に何かを助けようとする。そして、わたしたちに鎧や兜を押しつけ、装備を固めさせる。それで、素人のわたしたちでも自分に与えられた役割に相応しい者になれると考える。(たとえそれが、実際には、余り効果がないと思えるようであっても、だが)。それから、わたしたちは助言を聞かされる。指導を受ける。訓練のワークショップに送り出される。そして、気が付くと「腕一杯に本を持っている」ということになる。
素人であるわたしたちを助けようと、人々は確かに心から心配してくれるし、わたしたちもその親切を実感する。心配してくれるその人たちの知識と経験は、凄いものだと恐縮してしまう。わたしたちは、その言葉に聴かなければと思い、言われた通りにしてしまう。そして、自分自身が全く身動きできなくなっていることに気づく。
「エラの谷」でダビデが取った行動は、簡単なことではない。ダビデはサウルを敬愛していた。ダビデはサウル王を尊敬していた。ダビデはサウルに仕える立場である。サウル王は輝いて見え、力に満ちていた。サウル王はダビデを愛し、ダビデを助けるためにベストを尽くしていた。それにもかかわらず、ダビデは兜を脱ぎ、剣をベルトから外し、鎧を脱ぎ捨てたのだ。それは決して簡単なことではなかったはずだ。「せっかく提供された専門知識を投げ捨てて進む」ということをダビデはしたのだ。このようなことは、実にしばしばいつも起こる。ダビデは、彼自身にとって「あてになるもの」を必要としていたのだ。
ダビデは、自分には「あてになるもの」(サウル王の武具を使うこと)を拒否した。そうするだけの慎重さと大胆さを十分に身に着けていたのだ。そして、ダビデは羊飼いとして長年慣れ親しんできたこと(投石と数個の石を使うこと)を選んだのだ。わたしはそのことに強烈な感銘を受ける。そして、実際、ダビデは巨人を撃ち殺したのである。
準備せよ。
自分の手に余る敵と向き合っているのだから。
手に入る限りのすべての助けを得よ。
神からの武具を受け取れ。
周囲に叫び声ばかりが聞こえるような時にも、
しっかりと立つことが出来るように。
―― エフェソの信徒への手紙6章13節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。