聖書は実によく「成長と育ち」ということに言及している。例えば、ルカによる福音書には、イエスとバプテスマのヨハネを「成長する人物」として記している。「霊において逞しく育ち」(1章80節)とヨハネについて述べ、イエスは「知恵と能力において成長し、神と人とに愛された」(2章52節)と記している。ヨハネとイエスが公生涯についての物語を開始する直前に、英語の聖書では「成長した(grew)」という単語が使われている。つまり「最も偉大な預言者」と「唯一の救い主」はそれぞれの宣教の豊かさを宣べ伝える者として「成長した」ことが強調されている。
使徒パウロも「成長」という言葉をよく用いている。例えば、自分の人生の意味を聖霊の内に十全に入れ込むよう強く勧める時に、この「育つ」という言葉をしばしば用いる。わたしたちが信仰的に成熟する時に、パウロは「わたしたちはもはや幼子ではなく……あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していく。」(エフェソの信徒への手紙4章14、15節)と記すのだ。パウロはテサロニケの教会を称賛する時にも「あなたの信仰が益々成長し」(テサロニケの信徒への手紙 二 1章3節)と述べている。
ペトロも同じである。例えば「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」(ペトロの手紙 二 3章8節)と、ペトロはクリスチャンに力説している。ペトロは成人した者と乳幼児を比べて「純粋な霊的ミルクを慕い求めなさい。それを飲んであなたがたが救いに成長するように」(ペトロの手紙 一 2章2節)と述べている。
わたしたちを神の国に参与させる色々な譬(たと)え話がある。「成長」はその根本的な隠喩(いんゆ)である。「成長」イメージが最もドラマチックに書かれているのはヨハネによる福音書12章24節の中心部にある次の言葉である。「一粒の種が地に落ちて死ななければ、成長しない。だが死ねば、成長する」これはイエスの言葉である。「成長」はヨハネによる福音書の重要な関心事であった。「神がキリストにおいて為すあらゆる御業へと成熟させること」と「わたしたちの人生の営みの一つひとつを、イエス・キリストの御業に結集させること」に、ヨハネは関心を寄せている。ヨハネは福音をこの二つに等分している。そして12章24節における「成長」というイメージが、この両者をつなぎ合わせる蝶番(ちょうつがい)となっている。
イエスは言われた。「よく聞きなさい。もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒の麦以上には決してならない。だが、もし地落ちれば、芽を出し何倍にも実を結ぶ。同じように、命に固執する者はそれを滅ぼす。しかし、命をあなたの愛の内に思い切って手放せば、永久に、現実に、永遠に、命を持つことになる。」
―― ヨハネによる福音書12章24~25節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。