7月1日「いずれにせよ、主においては」

いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。(コリントの信徒への手紙I 11章11節)

初代教会において、皆の前で預言し、祈る役割を持つ人たちがいた。ところが、その中に、興奮して髪を振り乱して異言を語り、それを「霊に満たされた」状態と思う人たちがいた。女性の中には頭のヴェールを取って熱狂的になる者もいた。パウロはそのような言動は「教会を造り上げる」ことにならないと、これを諌(いさ)めた。御父とまったく等しい御子キリストが十字架の死に至るまで御父に従われたように、仕え合う関係の類比をパウロは説き、それゆえ、男と女の関係とは、主においては、互いを必要とするパートナーであることを語る。

教会の礼拝は個々人が自分勝手にするお参りではなく、神の民全体の集会である。共に神の前に集まり、共に賛美し、共に「アーメン」と唱和することによって、自分一人がここにいるのではなく、神の民とされていることを言い表すのである。

教会は社会から閉ざされた場所でも、逃避の場所でもない。礼拝は人々に開かれている。ゆえに、社会の通念や常識からかけ離れた言動は、人々に伝道し、神の栄光を現す教会を造り上げないことを知るべきである。熱狂的な言動や奇跡的な現象に聖霊の証拠を見ようとするのは、信仰の誘惑である。聖霊はみ言葉とともに働かれる。神の言葉が語られ、神の言葉を聞く礼拝者の間に、聖霊の主は現臨(げんりん)し、礼拝者を神と結び、神の恵みによって生きる者とする。

 

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