8月11日「美徳という形で」

キリスト教信仰には、長い時間をかけて先人たちが学んだ、十分な資料の裏づけがある英知の伝統がある。それは「平信徒であれ、牧師であれ、指導者の立場に立つことは危険をはらんでいる」というものだ。指導者が必要なのは当然なことだ。指導者になる人たちに災いあれ。リーダーシップというものは ―― ほんの一時のものであったとしても ―― その前提として、罪の可能性を帯びる。指導者の地位に就く以前にはあり得なかったような罪が、急に忍び寄ってくる。こうして生まれる「罪の可能性」は厄介である。それが罪であるかどうかを見極めることが極めて難しい。というのも、それはいつも「美徳」のような姿をもって現れるからだ。不注意で軽率な人は「神に奉仕できる好機」を見つけると、直ぐに飛びついてしまう。そうして、遅かれ速かれ、必ずその後、呪われた窮境に行き至ることになる。「多くの人々を教師にしてはいけない」と聖ヤコブが警告した。そこに危険があることを、肌身に感じて知っていたからだ。

あわてて教師になるようなことは、
決してしてはいけない。わたしの友よ。
教えることは厳しい責任が伴う。
教師は最も厳しい基準で裁かれる。
実に、わたしたちの誰一人も完璧な人はいないのだ。
―― ヤコブの手紙3章1~2節a

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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