生まれつき自由な人は、どこにもいない。わたしたち人間は一般的に、経験によって、この自由という啓示された真理を受け取る心構えをする。わたしたちが母親の中という安全な場所を出ると、直ぐによい心の腕の中に抱かれ守られ育まれる。そのタイミングで「自由」に放置されてしまうと、わたしたちはただ死んでしまうだろう。そんなことをしたら、飢えや渇きや、天候と病気、事故と野獣たちに遭遇し、わたしたちの命はすぐに終わってしまうだろう。幼児は自由な存在としてこの世に生まれるのではない。そうではなく、安全と保護のネットワークの中にある者として生まれくる。もし、幼児が「のんきでいる」としたら、いつもそばにいる人の多くが「注意深く手をかけてくれる」人がいるからである。わたしたちは束縛と限界と分限と制約が複雑に配合された世界の中で、自分の人生を生き始める。誰一人それを悪く言うことは出来ない。実際のところ、全ての人がそうして不自由さを「よいものだ」と認めている。でも、それは自由とは違う。あるいは、わたしたちは「であった黄金の日々」として、幼かったあの日々に憧れるかもしれない。でも、それは「自由」ではなく「安全」への憧れである。幸運であれば、わたしたちは生まれつき安全である。でも、生まれつき自由なのではない。それでも、わたしたちは自由に向かう運命と共に、自由を受け入れるべく生まれる。そしてその自由を信仰生活の中で理解して行く。
活ける神に、信仰によって、自由に応答できる ―― そうできるまで、わたしたちはモーセの律法によって十分に包まれ守られなければならなかった。
その方法というのは、
ちょうど「ギリシャ人の家庭教師」のように、
あなたにとっても親しいものである。
それは子どもたちの登下校に付き合って
危険や混乱から守り、
子どもたちがしっかりとした進路を
確かに選び取れるように導いてくれる。
―― ガラテヤの信徒への手紙3章23、24節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。