礼拝とはある人が考えるように美しいものではない。礼拝は儀礼で、さらに神学でもある。礼拝は神が語りかける人々がいて、それに応答し人生を賭ける人々がいることを忘れてはいけない。「家族の中に一人でいる他人」もまた、必要が満たされ、権利が守られる。自分だけが特別扱いされたり、「お気に入りの子」であったりはしない。そうしたことが「なるほど」と理解するところに礼拝があるのだ。
集う場所をはっきりと定め、時間を設定し、時間を指定し、秩序が守られるところに、礼拝が成立する。空間と時間が定められると、そこに祈りが起こる。わたしたちは天使たちではない。人々と共にいる時に、祈りが起こる。 ―― わたしたちは流浪の民ではない。精巧なものであれ単純なものであれ、バロック的に手の込んだものであれ、素気ないものであれ、どのような礼拝でも、そこにはいつも「空間」「時間」「秩序」の三つがあるのだ。わたしたちはイスラエルの礼拝についてほとんど知らない。初代教会のこともほとんど分からない。だが、それは問題ではない。わたしたちは考古学に基づいて祈るのではない。重要なことは「礼拝が行われていた」ということである。そのことをわたしたちは理屈なしに知っている。人々は決められた時間に決められた場所に集い詩編を使い祈ったのである。これこそがあらゆる業の中で最も人格的・個人的な礼拝であった! 祈りの礼拝の基本とはイエスが次のように念を押していることから分かる。「二人または三人が私の名で集まるところにわたしもいるのである」(マタイ18章20節)
さあ、わたしがあなたがたに行って欲しいことを記そう。礼拝に集まった時には、各々、全ての人たちにとって役に立つものを準備しなさい。つまり、詩編を歌い、教えを説き、物語を宣べ伝え、祈りを導き、洞察力を養うことを、それぞれ備えて集まることにしなさい。
―― コリントの信徒への手紙(一)14章26節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。