5月30日「『怒り』こそ、わたしたちの第六感」

 「怒り」は診察をするための道具として、最も有用なものである。「怒り」の爆発が起こる時、それは一つのシグナルとなって「何かが間違っている」ことが分かる。何かが上手く行っていない。「邪悪なもの」「無能なもの」「愚かなもの」が隠れている ―― そうした時、「怒り」が役に立つ。自分の周りに間違いがあるかどうかを「怒り」が嗅ぎ当ててくれる。それはまさに「第六感」というべきものである。実際に「怒り」が信頼できる道具として機能するので、それが信頼できると、誰にでも分かる。

「こうに違いない」という確信は、道徳的や背神的な強烈な思いによってもたらされる。そのような強烈な思いが「怒り」に染みわたっている。「怒る」時はいつも、わたしたちは何か重要なことに直面していると気づいて、そのことを具体的に考えてしまう。ある時、神がヨナにこう聞いた。「怒ることがよいと、あなたは思うのか?」と。その時、ヨナは次のように言い返した。「怒ることがよいと、あなたは思うのか? わたしは怒っている。死ぬほど怒っている」(ヨナ書4章9節)と。

 ただ問題もある。「悪いこと」が、わたしたちの内側にあるのか、自分の外側にあるかは「怒り」は教えてはくれない。ほとんどの場合、通常「自分の外側」にある、とわたしたちは考える。 ―― 「配偶者が悪い」とか「子どもが悪い」とか「神が悪い」から、わたしは怒っているのだと考えてしまう。これこそがヨナが行ったことである。ヨナは神と論争したのだ。しかし、「怒り」を注意深く追跡してみると、「悪いこと」はいつも、わたしたちの内側にあることが分かってくる。 ―― 「悪い情報」とか「不十分な理解」とか「未成熟な心」が原因となって、わたしたちが怒っているのだと気づくのである。そのことを認め、それに向き合う時、わたしたちは神と言い争うことを止めることが出来る。そして、わたしたちは、神の内にある大きな懐に導かれる。それこそが、わたしたちが迎え入れられる場所である。

遠慮なく怒れ。怒ってもいい。ただし、条件がある。
―― 怒りを報復のための燃料として使うな。
そして、怒ったままでいてはいけない。
怒ったままで床についてはいけない。
悪魔にそのような足がかりを与えてはいけない。
悪魔があなたの人生に入り込むことを
  許してはいけない。
―― エフェソの信徒への手紙4章26~27節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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