4月18日「エレミヤ」


善人を魅力的に描くことは非常に難しい。悪党を面白く描き出すのはずっと簡単である。わたしたちは皆、善よりも罪の方がはるかに多くの経験を持っている。それで、善人を生み出すための素材よりも、悪党を生み出すための素材を、作家はその頭の中に沢山持つこととなる。小説でも詩集でも演劇でも、印象深いキャラクターは、ほとんどいつも、悪党がその犠牲者である。善良な人々、美徳に満ちた人生のほとんどは、少し退屈に見える。そうしたことを考える時、「エレミヤ」というキャラクターの特異さは際立って感じられ驚くばかりである。わたしは大人になってからずっとエレミヤに魅了されてきた。彼の人物像の複雑さと激しさは、わたしの心を捉えて離さない。その「善良さ」「美徳」「卓越性」という、通常なら退屈なはずのものが、彼の魅力となっている。その生涯は至上のものである。その信仰は「温室育ち」のものではない。というのも、彼は「敵意の嵐」や「怒り狂う苦い疑念」の猛威の中で生きてきたのだ。「自己満足」や「独りよがり」や「愚かなほどの素朴さ」というものは、そこに全く見られない。彼の肉体は疲労によって限界までに伸び切り、彼の心の中のあらゆる考えは拒絶され、彼の心の中のあらゆる感情は嘲笑の炎で炙られていた。エレミヤの「善さ」とは「親切であること」ではない。それはむしろ「無双の強さ」に似たものである。

イエスは言われた。「わたしが来たのは、彼らが真の命と永遠の命を得ることが出来るために、そのためだった。つまり、彼らが自分たちが夢見ていた以上の素晴らしい命を得るためにと、わたしはやってきたのだ。」
―― ヨハネによる福音書10章10b節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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