5月1日「あなたがたは幸いである」

イエスの宣教の御業(みわざ)は大勢の人々を惹(ひ)きつけた。それを見てイエスは丘に登った。弟子となった者たち、すなわちイエスの宣教の御業に参加した人々たちが、イエスと一緒に登った。静かな場所に到着すると、イエスは座って、登ってきた仲間たちに教えられた。そしてイエスはこう言われたのである。「あなたがたが瀬戸際に追い詰められて途方に暮れる時、あなたがたは幸いである。力になってくれる人が少なければ少ないほど、神と神の支配が大きくなる。『自分はこんなものか』と思い知らされる時 ――『実際、自分はそれ以上でもそれ以下でもない』と気づいたとき ―― あなたがたは幸いである。その時、お金で買うことが出来ないもの全てを手にした誇り高き自分自身を見つけることが出来る。神に憧れ恋焦がれて飢え渇く時、あなたがたは幸いである。神はあなたに出会い、あなたがたは今まで口にしたこともないような味わいに満ち足りるだろう。誰かを大事にしている時、あなたがたは幸いである。心底周囲を大事にしていると、自分たちが大事にされていることに気づくのである。自分の内側の世界 ―― 思いと心の世界 ―― を正そうとする時、あなたがたは幸いである。あなたがたは外側の世界に神を見ることが出来るようになる。争い競い合うことを止めて力を合わせることが出来ることを人々に示す人々は、幸いである。その時、『本当の自分』を、つまり『神の家族の一員』である自分を発見するだろう。神の宣教の御業に参加し迫害されることになった時に、あなたがたは幸いである。その迫害によって、あなたがたは神の国のさらに深いところへと駆り立てられることになる。さらに、こう言おう ―― わたしの信用を落とそうとして、人々があなたがたを貶め、追い出し、あなたがたについての嘘を広めたりする時、自分は幸いだと考えなさい。それは、不快なほどに真実が迫る、人々が不愉快に思っている、その証拠なのだ。それが起こった時には、あなたがたは喜んでいい。 ―― 歓声をあげても構わない! ―― 人々は嫌がるとしても、わたしが喜ぶのだから! 天が拍手喝采(かっさい)を送るその時、あなたがたの仲間は多くいることを知る。わたしの預言者と証人は、いつもこの種の困難に巻き込まれてきたのだ。
―― マタイによる福音書5章1~11節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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