3月20日「神に注意深く聞き従う訓練」

わたしは牧師として召命を受けている。叙任されて宣教の業(わざ)に従事している。わたしの人生に神の言葉が臨み、神の恵みが注がれているので、わたしはその神の御業に参与しているのである。そして、神の御言葉はわたしが向き合う人々にも臨み、その神の恵みはわたしが共に生きる人々にも注がれているので、わたしはその人々に説教をし、聖礼典を執行し、「他者のために生きよ」とイエス・キリストの聖名によって命じている ―― そんなわたしの仕事のためには、どんな具体的な手段があるのだろうか? 「神の偉大なるリアリティー」と「救いの偉大なるリアリティー」がある。それをどうして、この教会が置かれた地域に結び付け、今週という時間の流れに結び付けることが出来るのだろうか? わたしが相談する師匠たちの間で答えは変わらない。

その「答え」とは「神に注意を集中する訓練」である。特に「祈ること」と「聖書を読むこと」そして「霊的な指導を得ること」の三つにおいて、神に注意深く聞き従う訓練を積むことが重要なのである。この訓練は有効である。「試みたが、効果がなかったため、放棄した」というのではない。しかし、やってみると、これは難しい(というか、いささか退屈である)ために、「牧師の忙しいスケジュールには合わない」という理由で棚上げにして先送りされてきたものである。

わたしは次のことを敢えて単純かつシンプルなままにした。第一にイエスとは「どういうお方なのか」ということ。それから次に、「イエスは何を行った方なのか」ということを守ってきた ―― つまり「十字架に架けられたイエス」を。
―― コリントの信徒への手紙(一)2章2節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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