子どもたちをメンタルヘルスの専門家に診せ過ぎてはいけない理由

ボニー・クリスチャン編集長による「クリスチャニティ・トウディ」の記事。

私の4歳の双子のうちの一人は、前に何度もやったことをできないふりをすることがある。「セーターが見つからない」と、目の前の床に落ちているセーターのことを言うのだ。「セーターがないんだ。着方が分からない。腕が動かないんだ。うっ! うっ! 腕が動かない!」

もう一人の双子は泣き虫の時代だ。ジーンズがはきにくい、トーストに塗るジャムを間違えた、約1.25秒探しても水筒が見つからないといった些細な失敗に、大声で涙を流して泣きわめく。彼の生は終わっているのが分かるだろう。その水筒は永遠になくなった。

双子のどちらにも悪いところはないし、もし悪いところがあると思えば――あるいは双子が2人でなければ、もっともらしく否認できる――このような話はしない。彼らのこの段階は深く悩ましいが、診断できるものではない。しつけと時間をかければ治らないものでもない。彼らは成長する。セーターが好きになり、水筒を見つけることを学ぶだろう。成長するのだ。

しかし、ジャーナリストのアビゲイル・シュリアーが新著の副題で述べているように、あまりにも多くのアメリカの子どもたちが「成長していない」のだ。『バッド・セラピー』=写真下=は、いくつかの要因が組み合わさって、アメリカ人の子ども時代をダメにしてきたと論じている。それは正常な成長期の痛みの拙速な診断と医療化、親の権威の低下と放棄、専門家と組織の行き過ぎ、そしてもちろんスマートフォンである。

ここ半世紀ほどで広く認識されるようになったように、子どもたち、ティーンエイジャー、そしてヤングアダルトは、不安、不幸、孤独を募らせ、かつては当たり前の自立の証であった、就職すること、車の運転を覚えること、ロマンチックな伴侶を見つけることなどを追い求めることを恐れている。つまり、大人になることを恐れているのだ。

シュリアー版のストーリーは複雑だ。最近の「アトランティック」誌のインタビューであるキャリアの長い精神科医がほのめかすように、彼女は間違いなく現実の問題を捉えている―それを認めるために彼女の政治的な考えや精神医療業界への懐疑を共有する必要はない。

彼女は、ちょっとした進取性が必要な家族に対して、適切なアドバイスをしている。学校内セラピーの現状に関する彼女の報告は、自分たちが授業を受けていた頃と状況がどれほど激変したかをまだ知らない親にとっては貴重なものだろう。しかし、いくつかのケースで、シュリアーが、誤解を招きかねない、あるいは混乱させるようなデータの使い方をし、また、彼女の主張が矛盾していたり、そうでなければ彼女の主張が不十分であったりする箇所が散見された。

なぜ子どもたちは成長しないのか

  シュリアーが取り組んでいる問題は、ある意味で一種の「買い手の自責の念」である。数十年来、アメリカの親たちは、子どもたちに必要なのは大人の保護、組織化された活動、セラピーであるという考え方を「買い入れて」きた。そうすることで、「最も幸福で適応力のある子どもが育つ」と私たちは考えていた。「その代わりに、精神衛生の専門家による前例のない助けによって、私たちは記録上、最も孤独で、不安で、憂鬱で、悲観的で、無力で、恐怖に満ちた世代を育ててきた。なぜなのか?」

シュリアーの答えは、新しい子育ての前提や、より広範な文化的規範や慣習の変化によって可能になった子どもへのセラピーが、解決策を装った問題であるということだ。

医学の他の分野では、進歩や医療へのアクセスの拡大が病気の発生率を下げ、患者の転帰を改善したと彼女は書いている。しかし、「不安やうつ病の治療法がより洗練され、より容易に利用できるようになるにつれて、思春期の不安やうつ病は急増している」。

シュリアーの提言は多くのことを正しく伝えている。子どもたちを精神疾患と診断することを急ぎすぎてはならないし、子どもたちにセラピーを受けさせる決断は、たとえそれが学校の「単なる」セラピストであっても、軽々しく行ってはならない。「治療するほど強力な介入は、傷つけるほど強力でもある」とシュリアーは忠告する。「セラピーは良性の民間療法ではない。救済をもたらすこともある。また、意図しない害をもたらすこともある」。

子ども向けの精神科の薬物療法は、大人への使用に比べて研究が不十分で、小学生の男の子の高いエネルギーや高校生の女の子の高い感情を鈍らせるために、あまりに広く調剤されているようだという彼女の懐疑の多くを私は共有する。「薬を飲ませることなく、子どもの不安や抑うつ、多動を和らげることができるのなら、そのために自分の人生を180度転換させる価値がある」とシュリアーは言うが、私はそれを議論するのは難しいと見る。

とはいえ、シュリアーの子どもに対するセラピーへの反対は、この本のタイトルが示唆する以上に広範であり、私を含め、ほとんどの人が喜んで従うような範囲を越えている。彼女は成人に対する認知行動療法を支持し、序文で、「深刻な精神疾患」に苦しむ若者に対する精神科医療に反対しているわけではないと述べている。しかし、この本の残りの部分は、あまりに激しく反療法的であるため、シュリアーが子どもに対するセラピーをリスクに見合うものと判断するのはいつになるのか、私は確信が持てずに読み終えた。

シュリアーの説明では、セラピストとメンタルヘルスの評価がますます横行しつつある公立学校が、その主な原因である。彼女は、評価があまりにも不注意に行われ、治療があまりにも自由に、時には親の知らないところで、しばしば最善の治療実践に反した形で行われていると主張する。

例えば、多くの州で日常的に行われている学校内調査では、自殺の伝染効果が知られているにもかかわらず、シュリアーは専門家とそれらの調査について詳しく長々と議論している。また、学校内のセラピストは、他の文脈では非倫理的とみなされるような方法で、患者との関係性の境界線をほとんど不可避的に曖昧にする。

シュリアーは、親はもっと権威的(権威主義的ではない)であるべきであり、もっと手を離すべきだと主張するとき、彼女の最高の力を発揮する。冷静になって、育児書を読む回数を減らしなさい。子どもを放し飼いにする。悪いことをしたらきちんと罰を与え、本当に大切なルールについては押しつけがましくならない。子どもたちが品行方正であれば、あなたも子どもたちをもっと好きになるし、他のみんなもそうなる。スマートフォンには厳しく、精神疾患の診断を急ぎすぎないこと。

わが夫がもっと簡潔に言うこと: ルールは少なくし、一貫して実施する。

 細部に潜む悪魔

  残念なことに、よく読むと『バッド・セラピー』は少々大ざっぱな内容になっている。問題のひとつは、シュリアーのデータの使い方で、ときに重要な文脈を無視して紹介されていることがある。

例えば、シュリアーは「2歳から8歳のアメリカの子どもの6人に1人が、精神障害、行動障害、発達障害と診断されている」と書いている。彼女の脚注は、疾病対策予防センター(CDC)の子どものメンタルヘルスに関するページを指し示している。この特定の主張について、そのページは、同じくCDCのサイトに掲載されている、”Health Care, Family, and Community Factors Associated with Mental, Behavioral, and Developmental Disorders and Poverty Among Children Aged 2-8 Years “という別の報告書を引用している。

シュリアーの論調と違って、このレポートは四つのことを明らかにしている。ひとつは、これは未分化の数字であり、知的障害や言葉の遅れなど、シュリアーの対象とはまったく異なる診断も多く含まれていること。二つ目は、国勢調査の質問で「医師やその他の医療提供者から、この子が(これらの症状の)いずれかであると言われたことがあるか」という質問に対して、親が報告した診断結果である。しかし、親が記憶違いをしていたり、看護師から聞いた憶測を正式な診断と勘違いしている可能性もある。

三つ目は、所得のデータから、「これまでの研究結果通り、高所得世帯の子どもに比べて、低所得世帯の子どもは」この種の診断を受ける頻度が高いということである。そして四つ目は、これらの低所得で診断の多い子どもたちは、高所得の子どもたちよりも、「前年に医療機関を受診した」可能性が低いということである。

シュリアーが書いているのは、親が診断のために買い物をし、処方箋を渡してくれる医者を見つけるまで次から次へと医者にかかる中流階級や上流階級の子どもたちのことである。しかし、彼女の情報源は、医者に行く頻度が低く、その診断が、私たちが一般的に「精神病」という言葉から連想する不安やうつ病のようなカテゴリーから外れている、未知の割合のケースである低所得層の子どもたちに焦点を当てている。では、『バッド・セラピー』が懸念しているような診断を受けた2歳から8歳のアメリカの子どもたちは何人いるのだろうか? 分からない。

もう一つ例を挙げよう。シュリアーは、スマートフォンだけでは子どものメンタルヘルス低下を説明できないと主張する過程で、ロバート・ウィテカー著『Anatomy of an Epidemic: Magic Bullets, Psychiatric Drugs and the Astonishing Rise of Mental Illness』の8ページを引用している。「1990年から2007年(まだ10代の若者がスマートフォンを持つ前)の間に、精神を病む子どもの数は35倍に増えた」とシュリアーは書いている。

しかし、これは正確にはウィテカーが言っていることではない。彼の報告によれば、1987年から2007年にかけて、「重篤な精神疾患によって障害を負い、SSI(Supplemental Security Income=追加保障所得)の支給を受けた」子どもの数は「35倍」に増加した。この統計は、最も重要な指標である人口に占める割合はおろか、精神障害児の数が増加したことを示すものでもない。それどころか、連邦政府が重篤な精神病と見なした子どもたちの35倍にSSIを支給し始めたことを物語っている。

この増加について、小児精神病の突然の急増にまったく頼らない、もっともらしい説明があるだろうか? 1987年から2007年の間に、何か他の変化があったのだろうか?

事実はイエスだ。1990年の最高裁判決、サリバン対ゼブリー事件によって、子どもたちがSSIの受給資格を得るための規則が緩和されたのである。「最高裁の判決を受けて、社会保障庁は……SSIの受給資格を与える精神障害のリストを拡大した」と、全米青少年法センターは報告している。議会は、1987年から2007年にかけて、他の資格拡大も法律で可決した。この20年間に小児精神病が増加したことは間違いないが、シュリアーの言う「35倍」というのは、リンゴとオレンジを比較したものである。

『バッド・セラピー』もまた、矛盾した主張をしている。例えば、6人に1人という行のわずか20ページ後に、シュリアーは――酷いことだが――子ども向けメンタルヘルス・アプリをまったく同じ数字に見えるものを引用して、批判している。

「メンタルヘルスの新興企業が潜在的投資家に見せる宣伝資料の見出しは断固としている:若年層の貧困なメンタルヘルスは想像できないようなビジネスの機会をもたらしている」と彼女は書いている。米国では、6人に1人の子どもが「精神衛生上の障害を抱えている」と主張している。年齢層は違うが、それ以外は基本的にシュリアー自身の主張である。

また、この本の後半では、「修復的正義」の学校規律モデルによって「男子生徒の停学処分は減らなかった」し、学校は暴力的な生徒の「停学や退学処分をやめた」と主張している。両方が真実でありうる唯一の方法は、暴力的な子どもがすべて女子であった場合である。

そしてシュリアーは、ジョーダン・ピーターソン(そう、あのジョーダン・ピーターソン=カナダの心理学教授で有名なUTUBERでベストセラー作家だ)の言葉を引用し、「自分について考えることと、落ち込んだり不安になったりすることに違いはない。それらは同じことだ。」と主張している。これは、現実のストレス、悲しみ、失敗に対する短期的な反応としての不安や抑うつは、良いことかもしれない-脳が喪失を処理するための健康的で保護的な方法であり、大人における長期的で診断可能な不安や抑うつとは異なる-という50ページにわたる彼女の主張と、本当にかみ合うはずがない。

大きな塩の粒(話し半分)

シュリアーが引用している多くの医学・心理学の専門家を評価できないことは言うまでもないが、彼女はその医学・心理学の専門家を常に非難しており、私は『バッド・セラピー』には警戒心を抱いている。私の感覚では、この本には必要な正論とイデオロギー的に動機づけられた誇張の両方が含まれており、多くの読者はその違いを分析するのに苦労するだろう。もしあなたが読むのであれば、話半分で読んでほしい。

最後に、子育てに関するシュリアーの考え方の中で、特にクリスチャンの読者に関連する批判をひとつ紹介しよう。「私はあなたの子どもの育て方を知らない」彼女は本を書き進めている。「私はあなたの価値観を知らない。そして、私は本能的に、これらのことを知っていると主張するほとんどの人に不信感を抱いている。精神衛生の専門家も誰も知っているとは思わない」と彼女は続け、業界が失敗してきた方法を列挙し、最後に「私はあなたの子どもの育て方を知らない。でも、あなたは知っている」と繰り返している。

でも、あなたは? 私はいつもそうだとは思わない。至って現実的なレベルでは、夫や年上の家族、私の子どもより年上の子どもを持つ友人、そして(必然的に)インターネットからのアドバイスを参考にしている。大局的に見れば、私の目標は、シュリアーが規定するように、単に自分の直感に従い、自分の価値観を伝えることではなく、子どもたちを信仰、家族、友情の共同体に参加させることである。

このような他者の知恵や共同体の助けへの依存は、スマホ中毒の子どもたちが成長するのに苦労している時代には特に重要だと私は思う。以前にも「クリスチャニティ・トゥデイ」で書いたように、スマホとの戦いは親だけで勝てる問題ではないと思う。これは集団行動の問題であり、理想的には地元の信徒を通じた共同体の援軍が必要だ。

シュリアーの個人主義的なモデル-あなた一人だけが自分の子どもにとって何が正しいかを知っていて、必要であれば、それを実行するために全世界と戦わなければならない―は、時に私よりも知っているイエスに従う仲間たちからの助けを私が現実的に必要とすることを許さないように見える。私は、自分の分野には詳しいが私の子には詳しくない、見当違いの専門家に親の責任を放棄したくはない。しかし、シュリアーのような、教会の入り込む余地を与えないような単独行動型子育ての礼賛も望んでいない。

(翻訳協力=中山信之)

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