「コギト・エルゴ・スム」、あるいは「われ思うゆえにわれあり」と言えば、哲学にそれほどなじみがなくとも、耳にしたことがあるという方は多いのではないでしょうか。
「それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。『私はある、私は存在する』という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。」
わたしが何ごとかを考えている限りにおいて、考えている当のわたしは必ず、存在するのでなければならない。ここで、17世紀の哲学者であるデカルトによって表明されている「コギト・エルゴ・スム」、そして、この文章が記されている彼の『省察』は、当時の哲学の世界だけでなく、ヨーロッパの文化そのものにも大きな衝撃を与えたことで知られています。今回はその辺りのことの成り行きにも少し触れながら、この「コギト・エルゴ・スム」が意味するところを考えてみることにします。
「こんなスタイルは、今までに全く見たことがない。」おそらくはこれが、『省察』をはじめて読んだ17世紀の人々が感じた第一印象であったに違いありません。何か、とてつもなくすごいものが出てきてしまった。『省察』がもたらした衝撃はまさしく圧倒的なものであったので、この本の存在は人から人へと口々に伝えられて、あっという間に当時のヨーロッパ中に広がってゆきました。
それでは、何がそれほどまでにすごかったのかというと、この本は一つには、哲学の書物としては驚異的とも言ってよいほどにわかりやすく書かれていました。専門的な用語はほとんど使われておらず、読者はその気さえあるならば、前提知識は何もなしで『省察』の世界に入ってゆくことができます。現代でも、哲学の本を読みはじめるならばまずは何はともあれ『省察』からと言われるほどのロングセラーとなっているゆえんですが、この本の論証の全体を支えている最も重要なテーゼこそが、上に掲げた「コギト・エルゴ・スム」だったのです。
前置きが少し長くなってしまいましたが、本題に入りましょう。「コギト・エルゴ・スム」、すなわち「考えるわたしは存在する」というデカルトのテーゼにあって注目するべきは、このテーゼがそれこそ絶対に確実であると言ってもよいほどに、揺るがすことのできない真理性を備えているという点にほかなりません。
私たちの人生の中で、「これは絶対に正しい」と主張できるようなものは、なかなかありません。たいていのことは「多分正しいけれども、違うと思う人もいるかもしれない」とか、「自分としては正しいような気がするのだが、本当に正しいかどうかには確信が持てない」といった程度の確実性にとどまっています。ところが、この「コギト・エルゴ・スム」だけはそうしたことがなく、それこそ絶対確実に正しいのであるとデカルトは主張するのです。
わたしは今、いったい何が正しいのだろうかと考えている。そうやって、考えたり疑ったりしている時には、わたしはいかんとも否定しがたいしかたで、考える何ものかとしてすでに存在してしまっている。たとえ世界そのものが夢であるとしても、あるいは、この上なく邪悪な霊がわたしを騙そうとしているといったようなことがありうるとしても、「考えているわたしが存在してしまっている」というこの一点だけは、何物も絶対に揺るがすことはできない。したがって、たとえわたしが死の陰の谷を行くことがあるとしても、わたしはもはや恐れることはないだろう。わたしは考えるという営みを、決してやめることはないだろう。真理に向かって一歩一歩着実に進んでゆくという精神の歩みを止めることのできるものは、この世には何も存在しないがゆえに……。
デカルトによって表明されたこの「コギト・エルゴ・スム」は、彼以前と以後とで、哲学の歴史をすっぱりと二分してしまうほどの切れ味の鋭さを持つものでした。このテーゼを経たのちに、神と物体の存在論証へと進んでゆく『省察』の道行きをたどり直すことはまた別の機会に譲らざるをえませんが、いずれにせよ、このテーゼが哲学の世界にもたらした影響の余波は、21世紀初頭の今日においてさえもまだ続いているといえます。