現代とは、いかなる時代であるか?:「存在の意味への問い」との関連において考える
思索する人間として、「存在の問い」をその生涯にわたって問い続けたハイデガーにとって、「ある」という言葉の重みが忘れられているということは単なる偶然や不注意に基づくものではなく、それ自体が改めて問い直され、究明されるべき根源的な事実にほかなりませんでした。
「存在についてのわれわれの問いがこのような本質的な決定性格を持っているとすれば、われわれは何をおいてもまず、この問いに直接的必然性を与えるあのこと、すなわち、われわれにとって存在とは、実際かろうじて一つの語にすぎず、その意味はふわふわした幻にすぎぬという事実と真剣に取り組まねばならない。[…]われわれ自身がこの事実の中に立っているのである。それはわれわれの現存在の一つの状態である……。」
従って、ハイデガーにとって、「存在の意味への問い」を問うことはそのまま、現代という時代を突き動かしている歴史的な運命そのものに向き合うことを意味します。アウグスティヌスの『告白』において語られている「〈ある〉との根源的な出会い」に改めて向き合う準備を整えるためにも、今回の記事ではこの点をめぐって考えてみることにします。
「言葉のあり方そのものが危機にさらされる時代」:現代において、「存在の意味への問い」を問うことの意義とは
1935年に行われた講義の内容をそのまま収録したとされている『形而上学入門』の導入部において、ハイデガーは次のように語っています。
『形而上学入門』における、ハイデガーの言葉:
「しかし『存在』という語のむなしさ、その呼称力の全き減退、これは一般的な言葉の誤用の中の単なる一例にすぎぬものではない。そうではなくてー存在そのものへの関連が破壊されているということこそ、言葉へのわれわれのまちがった関係の全体の本来の根拠なのである。」
ここでは、次の二点に分けて状況を整理しておくことにします。
① ハイデガーにとって、現代とは、人間存在と言葉とを結びつける根源的な繋がりが、危機的な仕方で失われつつある時代にほかなりませんでした。技術とメディアの発達によって、公共の世界においてはかつてないほどの速さと規模でニュースや言論が絶え間なく飛び交うようになったけれども、そのことによって、言葉そのものはかえって何かぺらぺらとした、内実を持たないものへと変質しつつあるのではないか。惑星規模で張り巡らされつつあるテクノロジーが、言葉のあり方そのものを危機にさらしているのではないかという懸念が、思索者としてのハイデガーの念頭にはあったものと思われます。
② 次回の記事でも詳しく検討することにしたいと思いますが、このことは、根底においては「数の論理の暴走」という、より深いところで起こりつつある事態と連関しています。巨大であること、規模が大きいこと、数が多いことがそれ自体として価値であるとみなされ、さまざまな物事の内容それ自体よりも、動員のスケールを表すもろもろの数字だけが不気味に一人歩きするようになってゆく過程のうちに、ハイデガーは現代なる時代の見えざる危機の兆候を見てとっていました。
そして、上に引用した文章にも示されているように、これらの状況は彼にとって、究極的には「ある」こと、「存在する」ことへの人間の関わりが失われてしまっているという事実に結びつけて思索されるべき事態にほかなりませんでした。
「存在そのものへの関連が破壊されているということこそ、言葉へのわれわれのまちがった関係の全体の本来の根拠なのである。」従って、「存在の意味への問い」を問い直すということはハイデガーにとって、私たちの時代に取り憑いている問題、あるいは病そのものに、改めて正面から向き合うことを意味します。現代の世界において、「生きることには意味がない」という漠然とした感覚が至るところに、場合によっては、一見するとそれとは分からないような仕方で漂い続けていることと、この世界のただ中で数字の次元が猛威を振るっていることとは根底においては連関し合っているのであって、この見えざる連関を考え抜き、その「彼方」を仰ぎ見るためには「ある」を根底から問い直すことへと向かってゆかなければならないというのが、思索者としてのハイデガーが抱いていた根本直観であったと言うことができそうです。
哲学する人間にとって、2023年の現在において『告白』を読むとは何を意味するか?
論点:
2023年の現在において『告白』を読み直す試みは、「存在の意味への問い」を問うことを通して、現代という時代の「彼方」をも望み見ることになるのではないか?
真理の探求者としてのアウグスティヌスは、ハイデガーの場合とは異なって、自分自身で明確に意識しながら「存在の問い」を問うていたというわけではありませんでした。しかし、彼はまるで事柄それ自身の方からの呼びかけを受け、そちらへと引き寄せられてゆくかのようにして、「根源的な〈ある〉への目覚め」という出来事を経験することになります(ミラノの見神)。
「あなたははるか彼方から、『わたしは存在するものである』と叫ばれた。」哲学の書物を読みふける日々のうちで、この声を「あたかも心で聞くように、聞いた」アウグスティヌスは、「存在する」という動詞が、もはやそれまでとは全く異なる仕方で響くようになるという衝撃を体験しました。実存する一人の人間であるところのわたしは事によると、今のこの時に至るまで、「愛」という言葉、「永遠」という言葉が指し示している事柄を根源的な仕方で経験することが全く不可能であるような生の内へと締め出されるようにして生きてきたのではないか。後に見るように、彼にとってはこの経験以降、世界や人間が存在すること、そして、自分自身の心が存在することといった事実の一つ一つもまた、それまでとは全く異なった意味を持つようになってゆきます(cf. 純粋に学的な観点から見るにしても、『告白』第七巻第十章から第十五章に至る記述は、存在問題との関連において読まれる必要があるものと思われる)。
『告白』をめぐる以上のような事情と、先に見た、現代という時代をめぐるハイデガーの考察とを考え合わせるとき、私たちの目には、次のような事情が開かれてくることになると言えるのではないか。すなわち、読むという行為、あるいは、〈他者〉の言葉に耳を傾けるという行為は、読む人間、耳を傾ける人間が自らの「理解」の内側にとどまることなく、自分自身にとっての「彼方」へと向かって自らを開き、自己そのものが変容させられてゆくような過程を含みこまずにはおかないはずである。『告白』という書物のうちに、哲学の歴史そのものが向き合わなければならなかった「〈ある〉の衝撃」の痕跡が消しがたく刻み込まれているのであるとすれば、2023年の現在においてこの書物の言葉に向き合っている私たち自身もまた、この衝撃を根源的な仕方で受け止め直すことになるのではないか。そして、そのことは必然的に、哲学の問いを問うている私たち自身が自らの生きている時代のあり方を問い直すということと、どこかで繋がってゆくことになるのではないだろうか。哲学することへと向かっている私たちは、遺産として伝わっている書物の言葉に触れ、自らの実存を賭けてそれに向き合うことを通してこそ、私たち自身の「生きることの意味」を問うのである。ここからの探求がどのようなものになってゆくのか、先を見通すことは難しそうですが、少なくとも、哲学の歴史そのものと「存在の意味への問い」との間に運命的と呼ぶほかない連関が存在することだけは、明らかになりつつあるのではないかと思われます。
おわりに
「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために」と信仰の書は語っていますが、哲学の営みには、自分自身のものの見方そのものが、それまでとは全く異なった見方によって丸ごと飲み込まれてゆくような、そうした実存の「理解」の変容のプロセスが必然的に含まれているのではないだろうか。私たちとしては、もう少しハイデガーの『形而上学入門』のもとに踏みとどまりつつ、アウグスティヌスが苦闘のうちで出会ったものに向き合うための準備を進めてゆくことにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]