【断片から見た世界】『告白』を読む 敬虔さとは何か

「〈善〉そのものの類比」としての太陽

思索者としてのプラトンにとって、〈善〉とはまさしく「太陽」という類比、あるいはメタファーを通してこそ語られるべきものにほかなりませんでした。

「『それでは』とぼくは言った、『ぼくが〈善〉の子供と言っていたのは、この太陽のことなのだと理解してくれたまえ。〈善〉はこれを、自分と類比的なものとして生み出したのだ……。』」

この「太陽の比喩」が示唆するところはまさしく、哲学の営みの根幹そのものに関わっているものと思われます。このことに鑑みて、今回の記事では、この比喩が指し示す領域にアプローチするための予備的な考察を行ってみることにしますが、この試みは、『告白』においてアウグスティヌスが出会ったものを根底から理解するための手がかりとしても役立つはずです。

「〈光〉が与えられている」:「太陽の比喩」は、認識論の視座からは必然的に抜け落ちてゆくものを見つめようと試みている

論点:
知ること、あるいは認識することという事象にとっては、「〈光〉が与えられている」という契機こそが根底的に重要なものである。

ものを見るためには人間が目を備えているだけではなく、光が事物の上に注がれて、その事物が光り輝くのでなければならない。前回の記事でもすでに見たように、このことこそがプラトンが「太陽の比喩」において、「知ること」の本質について考える上で依拠している、根本的な前提にほかなりません。

すなわち、プラトンが「認識すること」について考え抜こうとしている視座は、近代哲学の視座とは根底から異なるものなのです。近代の哲学は、認識する主体の心のうちで働いている、認識する機能に焦点を当てます。そこでは、世界から切り離された主体の意識のうちで働くことになる認識の力能が、「内省」という方法を通して探られることになります。この論点との関連で言うならば、反出生主義的思考の隠れた母胎であるところの独我論とは、近代という時代を突き動かしている根本的な動向から、生まれるべくして生まれてきたものであると言うこともできるのかもしれません(近代的なものの最終的局面、あるいは黙示的リミットとしての現代)。

これに対して、思索者としてのプラトンが知ること、あるいは認識することの本質に迫ろうとするとき、彼は近代哲学の視座からは常に抜け落ちてゆこうとする事実をまっすぐに見つめようとしています。すなわち、「人間の魂の目には〈光〉が与えられている。」目の働きは、認識主体と客観的事物を通して行き渡っている第三の次元であるところの「光」の現前によって、はじめて目覚めさせられます。知ること、〈イデア〉を見ることもまた、人間の認識能力によってのみ達成されるような事柄ではないのであって、人間の自由にはなることのない「〈光〉の与え」によって、はじめてそれとして生起することにはずです。

 

「開示することの運命」:あるいは、敬虔さとは何か?

論点:私たち人間は、知ることを許される限りにおいてこそ、何事かを知るのではないだろうか。

ここで問題になっている論点はおそらく、あまりにも根源的なものであるがゆえにまた単純でもあるといった類のものなのであって、それゆえに、近代の認識論のような探求からはこぼれ落ちていってしまわざるをえないような性質のものです。しかしながら、この論点を問いとして問うことには、単純であるがゆえにかえって極度の困難が伴うとしても、それにも関わらず、この論点が指し示す事象の領域は確かに存在しているのであって、たとえば『存在と時間』からその先の「転回」へと進んでゆかざるをえなかったマルティン・ハイデガーの後年の思索は、この領域のありようをこそ言葉へともたらそうと試みるものに他ならなかったと言えるのではないか。

知ること、見ること、語ることは、その根底においては人間の自由や恣意のままになるようなことはなく、〈存在〉からの運命の送り届けとして生起する。ハイデガーが思索したこの事柄をプラトンは、人間の魂の認識の働きは、〈善〉によって事物が照らされることによって、はじめてそれとして生起すると捉えます。同じ事柄をめぐって考えていることは確かだとしても、ハイデガーの思考とプラトンの思考との間には、「存在の彼方」という場所をめぐるある根底的な差異が存在するのであって、この事柄を〈善〉なるものを通して思索することの意味についてはこれから詳しく見てゆかなければなりませんが、私たちとしてはまずこの「太陽の比喩」のうちに含まれている、「運命」という契機に目を向けておく必要があるのではないか。そして、ことこの契機に関しては、この二人の思索者の姿勢は深いところでぴったりと重なり合っていると言えるのではないか。

私たち人間の生はさまざまな物事を経験し、模索し、知ってゆく道のりにほかなりませんが、この歩みは根底のところではおそらく、ある単純な「〈光〉が与えられている」によって、思索の目からは常にこぼれ落ちてゆこうとしている「開示することの運命」によって規定されています。敬虔さとは、「わたしにはできる」という力能の表明を差し控えつつ、「わたしに与えられている」ということの単純さの方にこそまなざしを注ぎ続けようとする実存の態度にこそ与えられる名なのではないだろうか。人間の人間性とは、自らの力能を拡大し、高め、ますます広げてゆくことのうちにのみ存するのか。それとも、おのれ自身の力能に幻惑されることの危険と絶えず格闘しつつ、「最も単純なもの」の単純さの方へと向き直ろうと努め続けることこそが、人間を真に人間たらしめるのだろうか。魂あるいは心は、太陽から与えられる「光」を通してものを見るとき、もののありようを認識します。同じように、人間の思考は〈善〉から与えられる〈光〉を通してこそものを認識するのであるとプラトンが言うとき、そこで問題になっているのは、一つには、この敬虔さに向かって自らの実存のあり方を整えてゆくことにほかならないのではないかと思われます。

おわりに

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と信仰の書は語っていますが、現代の思索は人間の力能を探求することを越えて、次第にこの「〈時〉が与えられている」の方へと、それを言葉へともたらすことの困難をも引き受けながら遡ってゆこうとしているようにも見えます(黙示的リミットにおける、「存在の彼方」への転回の可能性としての現代)。私たちとしては、この辺りで〈光〉をめぐる予備的な考察には一区切りをつけつつ、「太陽の比喩」において語られている〈善〉そのものの方へと探求を進めてゆくことにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

philo1985

philo1985

東京大学博士課程で学んだのち、キリスト者として哲学に取り組んでいる。現在は、Xを通して活動を行っている。

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