【哲学名言】断片から見た世界 アウグスティヌスの心と「罪」の問題

ローマへと旅立っていったアウグスティヌス

青年アウグスティヌスは出発を引きとめようとした母モニカを欺いて(!)、ローマへと旅立ってゆきました。

「風が吹いて、われわれの船の帆をはらませ、岸辺はわれわれの視界を遠のいた。そしてその岸辺に、翌朝、母は、悲しみで、気も狂わんばかりになり、嘆きとため息であなたの耳を満たしていたが、あなたはそれを省みられなかったのであった。[…]それにもかかわらず、わたしの不実と無情とを責めたてたのち、母はふたたびわたしのためにあなたに祈ろうと、ふだんのくらしにもどり、わたしはローマにおもむいた……。」

実の母親を騙してしまって、よかったのだろうか……とは読者の誰もが思うところですが、過ぎてしまったものは元に戻すことができません。今回の記事では、その後の展開について見てみることにします。

熱病、そして、始まった新生活

ローマに到着した後、青年アウグスティヌスはしばらくの間、重い熱病で苦しみました。やはり、母にしてしまったことがよくなかったのかどうかまでは分かりませんが、彼は幸いなことに何とか命は取りとめ、新しい土地での生活を始めることになります。

一方では、彼はマニ教関係の人脈に頼りつつ、修辞学教師としての仕事をローマでも開始します。すでに触れましたが、当時のアウグスティヌスは、すでにマニ教の教義に対する信頼は大方失っていましたが、社会的にはなおそのコミュニティに属しながら生活を送っていたようです。

他方では、狭い意味での教師としての仕事とは別に、彼自身の「真理の探求」の方もまた、ローマでも続けられていました。

後に出てくる年下の友人のアリピウスをはじめ、アウグスティヌスは自分と関わっているさまざまな人々と共に、「生きることの真実はどこにあるのか?」という問いを追い求め続けていました。さまざまな本を読み、日々、機会を見つけては対話し、「僕たちはこれでよいのか?」「実は最近、これこれの問題で悩んでいるのだ」「結局のところ、僕たちはどこに向かってゆくべきなのか?」等々といった言葉が交わされる中で、彼らの探求は進んでゆきます。今回は、この頃のアウグスティヌスの様子を知る上で重要な証言を一つ取り上げて、それについて考えてみることにします。

「罪」の問題について:ローマに到着した時期のアウグスティヌスの心

この時期の自分自身の心のあり方について、アウグスティヌスは『告白』に次のような言葉を残しています。

アウグスティヌスの言葉:
「[…]わたしは、当時もなお、罪を犯すのは、われわれ自身ではなく、われわれとは別の、何か知られぬ本性のものがわれわれにあって罪を犯すのだと考えていた。そして罪の責任を免れているということが、わたしの傲慢な心を満足させていた。[…]そしてわたしは、自分を罪人であると考えていなかったので、その罪はますます救いがたいものであった。」

アウグスティヌスがそれまで信じていたマニ教の教義は、善の原理を有しているはずの魂が、悪である身体や物体の世界のうちに閉じ込められているという、グノーシス主義的な世界観に基づくものでした。マニ教の影響から抜け出つつあったこの時期にも、まだそういった世界観の残滓は青年アウグスティヌスの中に残っていたもののようですが、込み入った議論は置いておくとして、ここで重要なのは、この時期の彼にはまだ「自分自身が『罪人』である」という、後に彼がキリスト教の信仰を持つことになる上で決定的な役割を果たすことになる考え方が根づいていなかったという点なのではないかと思われます。

「罪」という考え方はそれ自体、非常に込み入っているので、この問題についてはこれから時間をかけて少しずつ論じてゆかなくてはなりませんが、とりあえずここで確認しておきたいのは、これから彼が歩んでゆくことになる「信仰の道」においては、道を歩む人が「罪の赦し」なるものを理解し、経験することを通して、はじめて「神の愛」の深さが知られるようになるという点にほかなりません。

神の愛は、罪の赦しという考え方を経ることによってこそ、その深さにおいて知られるようになる。ということは、「罪の赦し」とは、さらには、「罪」とは一体いかなるものなのかということを理解することが、アウグスティヌスが「信仰する人間」としてのおのれ自身に変えられてゆく上での必須条件になるわけです。従って、彼が「神が存在し、私たちの一人一人を愛している」という思想に到達するためには、なおも真理の探求において歩むべき道のりを残していることになります。この道のりを歩みきった後にこそ、アウグスティヌスは「神とは〈愛〉そのものに他ならない!」という、自分自身の生き方の土台を見出すことになるでしょう。

おわりに

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」これからアウグスティヌスは、彼が生きていた古代末期に伝えられていたさまざまな哲学との出会いを通して真理の探求を深めてゆき、準備が整った後にはじめて「罪の赦し」というイデーに到達することになります。罪の問題についてはまたその時に論じることとして、私たちは、彼の探求の道のりを引き続き追ってゆくことにしたいと思います。

[キリスト教の内容を理解する上で、おそらくは最も直観的に理解しにくい考え方の一つが「罪」なのではないかと思いますが、この問題については、今後のアウグスティヌスの探求の歩みに合わせてじっくりと論じてゆくことにします。読んでくださっている方の一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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