「真理の囚人」:「自己」と「他者」の関係について考える
「ミラノの見神」体験は、探求のただ中にあったアウグスティヌスを「不変の光」によって捉えることを通して、彼自身をいわば真理の囚人へと変えてしまいました。
「わたしは進んでいったとき、わたしの魂の目でそれはなおかすんでいたが、まさしくこの魂の目の上に、わたしの精神の上に、不変の光を見た。[…]真理を知るものはこの光を知り、この光を知るものは永遠を知る。それを知るものは愛である。おお、永遠の真理よ、真理なる愛よ、愛なる永遠よ、あなたはわたしの神であり、あなたを求めて、わたしは『夜も昼も』あえぐのである……。」
ここにおいてはあたかも、人間存在が自らの意志によって哲学の営みへと向かっているというよりも、むしろ、哲学の方が人間存在を駆り立てて思索するべきものを思索させているかのような観があります。今回の記事では、『告白』における証言の言葉に耳を傾けつつ、この体験が探求する人間としてのアウグスティヌスに及ぼした影響を検討することを通して、〈自己〉と〈他者〉の関係について考えてみることにします。
「今のあなたには、まだわたしを見ることはできない」
アウグスティヌスの証言:
「わたしがはじめてあなたを知ったとき、あなたはわたしを迎えて、わたしが見るべきものは存在するが、わたしはまだそれを見ることができないということを、わたしにしらせた。そしてあなたは、激しい光を注いでわたしの弱い目をくらまされたので、わたしは愛と恐れで身をふるわせた……。」
「今のあなたには、まだわたしを見ることはできない。」「ミラノの見神」はアウグスティヌスにとって、全ての謎を解決するというよりも、むしろ、自分自身の存在をはるかに超え出るような大きな謎をかけられることによって、より一層探求に打ち込むように促されるような経験であったと言うことができるのではないか。
「プラトン派の人々が語っている〈善〉、あるいは〈一者〉なるものは単なる書物の上の言葉にとどまることなく、実際に存在するのではないか。哲学の営みとはその意味において、真実在そのものの探求に他ならないのではないだろうか。」このようなアウグスティヌスの予感は、彼自身が「不変の光」を目にする経験を経ることによって、ほとんど確信にも近いものへと変えられました。自分自身の身をもって体験したことは、いかなる理論や体系の整合性にもまして人間を突き動かす力を持ちます。ローマ帝国の中で知的エリートとして生きてゆくという彼のもともとの願望は、この段階に至って、もはや完全に崩れ去りつつあったと言えるかもしれません。
「そしてわたしはあなたとはまったく異なる世界にあって、あなたから遠くはなれているのを知り、天上からあなたの声が聞こえるように思った。『わたしは大人の糧である。生長してわたしを食べられるようになれ。お前はわたしを、お前の肉の糧のように、お前に変えないでお前がわたしに変えられるであろう。』」「ミラノの見神」はかくして、アウグスティヌスにそれまでとは根本的に異なる新しい課題を突きつけました。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、真理の探求の道のりをひたすら走り続けることです。この道においては、後戻りや途中での放棄はありえないのであって、探求する人間に求められるのはただ、「存在の彼方(エペケイナ・テース・ウーシアース)」から啓示されるようにして示された目標に向かって、全力で苦闘し続けることに他なりません(「『実存の本来性』、あるいは『最も固有な存在可能』は、探求する人間がくぐり抜ける数多の困難と苦しみを通してこそ完成されてゆく」)。
「実存とは脱存である」:〈他者〉なるもののリアリティ
論点:
実存する一人の人間であるところのわたしが生きることの意味は、「存在の超絶」そのものである〈他者〉との関係を通してこそ与えられてゆく。「内包としての意味は〈他者〉から与えられる」というのが、言語の本質に関する洞察を導く根本原則となるはずである。
〈他者〉のリアリティに触れることは、意識の主体であるところのわたしの渇望を、満たすことを通して消し去ってしまうことなく、かえって渇望をそれまで以上に鋭い仕方で目覚めさせ、わたしを〈他者〉の方へと向かって駆り立てることになります。なぜなら、〈他者〉とはその本質ならざる本質からして、常にわたしの意識を超え出る「彼方」なる圏域から呼びかけてくるような存在なのであってみれば、「あなたにはわたしを見ることはできない」こそが、彼あるいは彼女から沈黙を通して語られ続ける言葉に他ならないからです。アウグスティヌスにとって、絶対他者である神のリアリティとの初めての出会いを意味する「ミラノの見神」こそは、彼が彼自身の〈渇望〉に真に目覚めさせられてゆく契機であったと言うことができるのではないかと思われます(「あなたを求めて、わたしは『夜も昼も』あえぐのである」)。
これと同じようなことは、隣人たちという「隠れたる驚異」に絶えず関わり続けている、私たち自身の日常においても起こっていると言えるのではないか。私たちは、私たち自身には直接には心のあり方を知ることのできない隣人たち、どれだけ既知の属性を帯びているように見え、もはや何の驚きをも引き起こすことのないほどに親しくなったように感じられようとも、本当は「彼方」に属することを決してやめることのない「存在の超絶」の住人たちからの言葉に耳を傾け、彼らに向かって自らの言葉を語り続けています。そうであってみれば、実存する一人の人間であるところのわたしが隣人たちとの間に結ぶことになる関係は、その関係を真実なものたらしめようと努め続ける限りは、常にわたし自身の実存そのものを賭けたものでしかありえないものなのではないか。「超絶」の圏域の住人であるところの隣人たちとの関わりは、そこにおいて愛や倫理の本質が絶えず問われ続けるという意味において、「聖なる日常」とでも呼ぶべき日々の静かな務めを形作るものなのではないだろうか。
以上のような論点については、これから先も引き続き掘り下げてゆく必要がありそうですが、今回の記事を締めくくるにあたって最後に注目しておきたいのは、先に引用した部分において語られている、「お前はわたしを、お前の肉の糧のように、お前に変えないでお前がわたしに変えられるであろう」という表現にほかなりません。
この表現においては、〈他者〉との出会いは、その出会いを経験することになる人間に、それまでの自己を保たせることなく、かえってその自己のあり方を根底から揺るがしつつ、その人間自身の存在を新しく生まれ変わらせるという驚くべき実存論的事実が語られているのではないか。実存する一人の人間であるところのわたしは、「あなた」と呼びかけるほかないような他者のリアリティに触れ、その〈光〉に照らされることによって、わたし自身の存在から抜け出ることへと呼び覚まされる。自己なるものは、「存在の超絶」との関わりのうちで今ある自己自身と世界とを後にして、常に無条件で「彼方」へと向かってゆくという運命あるいは務めを背負わされているのではないか。その意味において、「実存するということ Existence」は一つの紛れもない「脱存 Ex-istence」のモメントを、自らが住み着いて慣れ親しんでいる土地を離れて、まだ一度も見たことのない未知の場所へと旅立ってゆくという精神の運動を不可避的に含みこんでいるのではないだろうか。この点からすると、真理の囚人になるとは、自分自身を超え出るものの存在に捕らえられ、謎をかけられることによって、かえって比類のない自由を生きるという実存の可能性に向かって開かれてゆくことを意味するもののようにも思われてきます。「ミラノの見神」をめぐる『告白』の叙述からは、現代の哲学にとってもいまだ十分な仕方では踏査されることのないままとどまり続けている、この知られざる運動の内実を探り出すことへの手がかりを読み取ることもできるのかもしれません。
おわりに
「神の愛は脱我を引き起こす」というのは先駆者としてのアウグスティヌスを超えて、擬ディオニシオスからトマス・アクィナスに至るまで、中世の哲学者たちによって絶えることなく追い求められ続けた探求の主題に他なりませんでした。彼らの探求からは、2023年の現在において哲学の営みへと向かっている私たちが、〈他者〉なる存在について考えてゆく上での示唆を受け取ることも可能であるように思われますが、以上のようなことをも念頭に置きつつ、私たちとしては引き続き、「ミラノの見神」をめぐる『告白』の言葉に耳を傾けることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]