【哲学名言】断片から見た世界 カミュの「シーシュポスの神話」の言葉

新たな年が、やって来るのに際して:カミュの「シーシュポスの神話」を読む

2021年も、今週でもう終わりです。去ってゆく年と来たるべき新年について、私たちは何を思うでしょうか。今回は「新たな年がやって来る」というテーマについて、カミュの「シーシュポスの神話」を通して考えてみることにします。

「神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど怖ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。」

20世紀フランスの作家、アルベール・カミュがまだ30歳にもなっていない頃に書いた「シーシュポスの神話」は、ほとんど10ページにも満たない断片のようなテクストですが、読んだ人の中で「この文章の味わいは今でも心に残っている」という方は、少なくないのではないでしょうか。今回は、この文章の中に示されたカミュの思考をたどることを通して、あと数日でやって来る2022年を迎えるための気分を整えてみたいと思います。もしよかったら、お付き合いいただければ幸いです。

シーシュポスに課せられた刑罰:神話が語る、人間存在の宿命

タイトルが示している通り、この文章の中でカミュが取り上げているのはただ一つのギリシア神話、すなわち、シーシュポスの神話です。この神話の中で語られている状況は、一度聞くと、誰もが忘れることのできないものであるといえます。

シーシュポスは、神々に対して反抗した罰として地獄に落とされ、ある刑罰を課せられました。それは、上に引用した文章にも示されているように、見るからに動かすのが大変そうな岩を、山頂まで無限に転がして運び続けるという罰にほかなりませんでした。

岩は、山頂まで運び終えられると、またゴロゴロと底まで落ちてゆきます。シーシュポスがいかに努力し、労苦しようと、この仕事は決して終わることがありません。

これは、私たち人間存在が背負わなければならない運命を描きとった、この上なく見事な一つの比喩です。いくら努力したとしても、いくら踏ん張ったとしても、生きるという労苦は決して終わることがなく、私たちはいつでも、私たち自身の抱える巨大な「岩」に駆り立てられ続けるほかない……。この比喩の持つ重みを感じとるためには、巧みな言い回しも、レトリックも必要ありません。「私たちは岩を運び続けなければならない」、ただ、そう書きつけるだけで十分でしょう。

 

Image by jay Clarke from Pixabay

 


「夜で満たされた山の麓に、一つの声が鳴り響く……。」:カミュが、この刑罰の「不条理」のうちに見出したもの

ここで話が終わっていたならば、カミュの「シーシュポスの神話」はただ、印象に残る一つの神話的状況を提示したというのにとどまってしまっていたことでしょう。実際には、カミュはこのテクストを書きつけている間に、人生の物事を真摯に考え続ける人には折に触れて必ず聞こえてくる、ある声の響きを聞き取ります。すなわち、彼はかのシーシュポスの耳にまで届いてくる、「すべてよし!」の声を聞くのです。

この転換はほとんど理屈を超えたたものなのであって、一つの奇跡のようにして起こります。「確かに私はえんえんと、岩を運び続けなければならない、だが、そのことが何であろうか!」これまでのシーシュポスは自分自身に与えられた刑罰のことを、何か耐えがたいことのように感じていました。「すべてよし!」の声の響きとともに、一切が変わります。今や、自分自身が味わわなければならない労苦のうちに、彼は驚くべきことに、一種の喜びをさえも感じ始めているのです。はるか先にやって来るであろう終わりまで、日々は続いてゆく。最後までやってみよう。2021年もそろそろ終わりになりますが、私たちのうち、この一年を通して自分自身の「岩」を転がし続けなかったという人は、誰もいないことでしょう。「岩」はときに耐えきれないほど重く、また、時には少しだけ楽なこともありますが、運び続けなければならないことでは同じです。しかし、何とすばらしいことでしょうか、しかるべき観点から物事を眺めるならば、いつでも状況はその根底においては、「すべてよし!」にほかならないのです(信じる者にとっては万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っている)。

「いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。」これが、カミュが「シーシュポスの神話」の終わりに書きつけた文章です。今回の記事は、ほとんどカミュの書いたことをそのままなぞっただけに終わってしまいましたが、この記事を通して、シーシュポスの労苦に満ちた幸福を分かち合ってくださった方の2022年が、恵みと平和に満たされたものであることを祈ります。

おわりに

このコラムは今年の夏ごろに始まったものですが、これまで読んでくださった方、本当にありがとうございました!2022年になってもこのコラムは続きますが、新年からは装いを変えて、新たな企画を始めたいと思いますので、関心を持ってくださる方は、お時間のある時にでも覗いていただければ幸いです。みなさま、よい新年をお過ごしください!

philo1985

philo1985

東京大学博士課程で学んだのち、キリスト者として哲学に取り組んでいる。現在は、Xを通して活動を行っている。

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