マニ教徒になったアウグスティヌス
はじめて読んだ聖書に失望した19歳の青年アウグスティヌスですが、次に彼が歩んだ道は後々の視点から眺め直すならば、ほとんど暴走とも言いうるものでした。といっても、当時の彼自身としては、「自分は今まさに、紛うかたなき真理の道をひた走っている!」と信じていたのですが……。
「こうしてわたしは、思い上がって気違いじみた人々と交わり、はなはだしく肉に執着し、ひじょうにおしゃべりな人々と交わるようになった。[…]かれらは、「真理、真理」と叫んでそれについて多くのことを語ったが、真理はかれらのうちのどこにもなかった。かれらは、まことに真理であるあなたについて、虚偽を語っただけではなく、あなたのつくられた世界の元素についても虚偽を語った……。」
ここで「気違いじみた人々」と言われているのは、マニ教徒たちのことを指しています。今回の記事では、青年アウグスティヌスのマニ教入信(!)の出来事について見てみることにしたいと思います。
「人類の最終宗教」マニ教とは一体、いかなるものであったか
まずは、事実を確認しておくことにします。正確な経緯までは語られていないものの、この時期のアウグスティヌスは何らかのきっかけを経てマニ教徒の一員となり、以後の十年近くにわたって「マニ教徒アウグスティヌス」として活動することになります。『告白』の記述によれば、その間の彼は、熱心に周囲の友人や身内の人々に対する布教に尽力したもののようです……。
ここで私たちは、「マニ教とは何か?」という点について、簡潔に見ておくことにしたいと思います。マニ教とは、アウグスティヌスが生まれてくる百年ほど前から当時の世界中に広がり始めていた、いわゆる新興宗教の一つに他なりませんでした。ちなみに、創始者マーニー・ハイイェーの教えを信じる人は今から千年以上も昔に完全にいなくなってしまったので、現在では、地球上にマニ教徒は存在しません。
この宗教の特徴はいわば、「古代末期最強の混合宗教」であったことです。マーニーの教えによれば、イエス・キリストもブッダもゾロアスターもただ一つの真理、すなわち、マニ教の真理を予告するものであったことになります。そして、創始者であるマーニーこそは、あくまでも彼自身の主張によるならばですが、「人類の最終宗教」たるマニ教の教えを広めるために光の神のもとから送られてきた、最後にして究極の預言者に他ならないのです。
壮麗かつエキサイティングなことこの上ないマニ教神話の数々を紹介させていただくスペースがないのは遺憾というほかありませんが、この教えを信じたマニ教のエリートたちはマーニーの戒めに従って、とにかく出来るかぎり多くのメロンとキュウリとブドウを食べまくりながら、世界の大崩壊の時を待ちつつ布教にいそしんでいました。そして何の因果か、この教えに熱烈に感動してしまった青年アウグスティヌスもまた、このマニ教徒の一人としての活動を開始したというわけなのでした。
相談された司教は息子のことで涙に明け暮れる母モニカに対して、何と答えたか
母モニカはこの知らせを聞いて、「まあアウグスティヌスったら、マニ教徒になったなんて、なんて素晴らしいんでしょう!」と大喜びしたりするはずもなく、当然といえば当然の反応とも思われますが、もうただひたすらに、泣きに泣きました。実の息子から、メロンとブドウとキュウリを食べることの効能と、世界の終末との間の関係について熱心に説かれる母親の気持ちは想像するにあまりあるものがありますが、アウグスティヌスはこの後の生涯においても、折に触れて母モニカを悲しませることになります。最後がハッピーエンドだったから良いようなものの、私たち現代の読者にも、母親の苦労なるものに改めて思いを致させずにはおかないエピソードであるといえます。
さて、モニカは必死の思いで、お世話になっていた司教のところに行きました。彼女は信頼しているその司教にすべてを打ち明けて(彼は、今の時代で言うならば、いわゆる「人生相談」のカウンセラーに近い役割も請け負っていた人であったようです)、アウグスティヌスと直接話してほしいと頼み込みました。司教さま、わたしではあの子を説得するのは無理です。どうかあの子を何とかして説き伏せて、元に戻してやってください。
ところが、その司教が心配する母に対して返した答えは、彼女の期待には反するものでした。「御子息はしばらくそのままにしておきなさい。」これだけ聞くと無責任な答えのようにも思われますが、おそらく、この司教は母の話を聞いて、今は下手に動いてもよい結果を生むことはないだろうとの判断を下したものと思われます。そして、『告白』の叙述からするならば、彼には「心配しなくても、息子はいつか必ず戻ってくる」という確信に近い予想もあったもののようです。それというのも、今は司教の地位に就いて、悩める母の相談に乗っているこの人自身もまた、かつてはあのマーニーの教えを信じていたこともあったものの、やがて自然とその迷いから覚めるという経験をくぐり抜けていたからなのでした。
おわりに
「長々と時は流れるが、それでも本当のことは起こる。」前回に引き続きこの言葉を掲げておく必要のありそうなエピソードでしたが、この後の何十年の間に起こる出来事のことを考えてみると、私たちは、世界の歴史を動かす運命なるものの不可思議さに思いを馳せざるをえません。私たちの人生には、その後の展開からするならば「一体、なぜこんなことに……」と振り返らざるをえないようなドタバタの一幕も起こりますが、運命がひとたび望むならば当の人間たちの想像を超えて、元の方向へと一気に引き戻されることになります。昔の人々の言い方に倣うならば、人の世とはまことに一個の「世界劇場」に他なりませんが、その舞台監督は、混沌から秩序を引き出す至上の叡智を備えてもいるもののようです。私たちも、青年アウグスティヌスが紆余曲折を経て、「古代ローマ末期の精神の偉人、アウグスティヌス」としての自らの運命へと向かってゆく道のりを、引き続きたどってみることにしたいと思います。
[青年アウグスティヌスがたどった人生の道のりはまさしく波乱万丈とも言うべきものであったことが、今回のエピソードからも伺われます。母に迷惑をかけるのはいかがなものかとも思われますが、上にも述べたように、話は最後には混沌ではなく収束に向かうことが約束されてはいるので、現代を生きている私たちも一応は安心(?)して読むことができます。なお、今回の記事では、現代の私たちにとっては馴染みのうすいマニ教を近づきやすいものにするために、『告白』の本編にはないマニ教紹介の部分をはさませていただきましたが(当時の『告白』の読者にとっては、これらの事項は既知の事柄に属するものでした)、その内実については、青木健氏の『マニ教』(講談社選書メチエ、2010年)を参考にしています。著者の軽妙な語り口も含めて面白いことこの上ない本なので、この分野に関心のある方には非常におすすめです。]