12月19日「あなたがたに平和があるように」

イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。(ヨハネによる福音書20章19〜20節)

主イエスの十字架の死に打ちのめされた弟子たちは、人々の追跡の手が自分たちにも襲いかかることを怖れて、家に閉じこもっていた。今日の聖句は、人生に絶望していた弟子たちに、復活の主が現れた出来事とその意味を伝えている。弟子たちの前に現れた主イエスは、手には釘跡があり、わき腹に槍(やり)の傷跡がある、紛れもなく十字架で死んだ方であった。すなわち、復活の主はご自分の十字架の死が主を示して、平和を告げる。今や、弟子たちは主の死によって贖(あがな)われた神の子たちである。主イエスが宣言する平和は、まさに神の子とされた平和である。この平和を得て、弟子たちは恐れから解放され、苦難に立ち向かってゆく人間に変えられた。

主イエスの復活は幻視体験(げんしたいけん)であると言う人がいる。しかし、幻ならば各人が見るものは違うはずだから、「主は復活された」という弟子たちの共通の告白は生まれなかったであろう。また、幻は生前に生活を共にした者に意味があるのであって、そうでない者には意味も力もない。しかし、その後も多くの者たちが主イエスに贖われ、救われて、希望と勇気を与えられているのは、復活の主が生きて働いているからである。

私たちキリスト者はさまざまな人間の限界に直面するが、そこで働いてくださる主イエスの臨在を知っている。ゆえに、死という人間最大の限界を迎える時も、私たちはそこから働いてくださる神の「始まり」を信じ、神を待ち望む。死は私たちの目には終わりでも、神の目にはそうではない。主の十字架の死と復活は、この「始まり」に目を向けよとの神の招きである。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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