貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。(ヨハネによる福音書12章8節)
マリアは食卓に座っていた主イエスの足にナルドの香油を惜しげもなく注いだ。それから、髪の毛で主の足を拭った。高価な香油が土間に吸い込まれてゆくのを見て、ユダは「なぜ、こんな無駄をするのか。この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言った。ユダの目にマリアの行為がはなはだしい浪費と映った。「貧しい人を助けよ」と言うユダの言葉は正当に思えた。
しかし、主イエスはマリアの行為をご自分の死と結びつけて、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(7節)と言った。マリアは罪ある者を受け入れてくださる主イエスの愛に十字架の死があることを見て、このような仕方で感謝を表わした。主イエスはマリアの行為をご自分に対する信仰の行為として受け入れ、弟子たちに今日の聖句を語った。貧しい人を助けることはいつでもできる。しかし、私たちの罪のために十字架で死んだ主イエスの愛に応えて、感謝の信仰を言い表わし、救いの恵みにあずかるのは、今日しかないのである。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救(すくい)の日である」(Ⅱコリント6・2 口語訳)。
隣人への愛は主イエスの求める戒めであるが、これを錦の御旗(みはた)にしてはならない。「あなたはなぜ貧しい人を助けなかったのか」と言うユダのもっともらしい非難は、主の戒めを絶対化して人を裁く、まさに隣人への愛を欠いた態度である。私たちは主の戒めの前で自分の愛の貧しさを知るが、それで自分を裁くのではなく、自分にできるだけのことをすればよい。