なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。(ルカによる福音書22章46節)
主イエスは弟子たちを伴って、オリーブ山で「いつものように」(39節)、「いつもの場所」(40節)で祈られた。主イエスは地上の生涯において絶えず父なる神に祈られた。
地上の生涯の最後の夜、主イエスは「父よ、御心(みこころ)なら、この杯をわたしから取りのけてください」(42節)と、苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。その時、汗が血の滴るように地面に落ちた。主の十字架の苦しみは、私たち人間が決してあずかり知ることのできない苦しみである。それは人々の手による処刑の苦しみだけではなかった。「十字架の杯」は、神に裁かれ、神に見捨てられる苦しみである。私たちは神の裁きの恐ろしさを知らない。神の御子(みこ)は知っているので、かくも苦しまれた。主は私たちのために、私たちに代わって裁かれ、神に捨てられた。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ53・6)。罪なき僕(しもべ)によって罪人(つみびと)を救うことは、預言者によって語られた神の御心である。僕となられた神の御子イエスは血のにじむ祈りによって、神の御心をなし遂げられた。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブライ5・7)た。私たちは主が御心をなし遂げるために、主なる神に捧げた激しい祈りを忘れてはならない。主イエスが弟子たちに語った今日の聖句は、神の御心を行うために、祈りによって悪魔の誘惑と戦ったご自分の生活に基づく私たちへの勧めである。