見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言うであろう。(ルカによる福音書15章9節)
主イエスは罪人(つみびと)と食事を一緒にするご自分の行動を、三つの譬(たと)えによって、失われた者を捜し回り、その一人を見つけると喜ぶ神の姿として語った。
第二の譬えによって、主イエスはご自分を、無(な)くした一枚のドラクメ銀貨を、ともし火をつけ家を掃き、見つけるまで念を入れて捜す女の人に譬える。私たちは失われた銀貨のように、自分では神のもとに立ち返ることができないので、主イエスは私たちが立ち帰れるように、み言葉を語り、罪の赦(ゆる)しを宣言し、愛を込めて導いてくださる。神の前から失われた私たちであるが、この私を見出すために、神は御子(みこ)イエスを世に遣わしてくださった。ここに愛がある。大切なことは、捜し回り、見出してくださる神の愛に自分を委ねることである。
教会は、主イエスに見出された者たちの集まりである。「今は神を知っている。いや、むしろ神に知られている」(ガラテヤ4・9)ので、私たちはどんな時にも心強い。また教会は、神が失われた者を捜し求めて働いておられるところである。その働きのために、神は先に見出した私たちを用いられる。そして、失われた一人が見出されると、主は今日の聖句のように、「一緒に喜んでください」と言う。「神の国」は、失われた罪人を見出した神の喜びを共にするところである。「悔い改める一人の罪人」を迎えて喜んでいる神の国が天において始まっている。教会は神の喜びを共に喜ぶ「神の国」の先取りの場所である。主イエスが一緒におられるところに神の国が始まっている。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)