家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。(マルコによる福音書12章10節、詩編118編22節)
主イエスは神と人間の関係をたとえで語った。主人は丹精を込めてぶどう園を造り、これを農夫たちに委ねた。神は創造した世界の管理を人間に託したのである。時が来ると、主人は収穫を受け取るために、僕(しもべ)を遣わした。人間のなすべきことは、神から託された世界を活用し、その収穫を神に捧げて「地と、そこに満ちるものは主のものである」と告白し、神に栄光を帰することである。「だが、農夫たちは僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」。人間は自分の思い通りに生きるために、自分が世界の主人であると主張したのである。その時、神は邪魔となった。人間は神を否定することで、あらゆる束縛から解放され、幸福になると考えた。しかし、これは幻想ではないか。人間は神を否定して、本当に解放され、世界は平和になったであろうか。
農夫たちの反抗にもかかわらず、主人は寛容である。主人は僕たちを送り続け、彼らが悔い改めるのを忍耐強く待った。そして最後に、主人は息子を遣わした。ところが、「農夫たちは息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出した。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか」。人間は神に反抗しているが、神の寛容によって、今なお、この世界に生きることを許されている。しかし、悔い改めないなら、神が総決算される終わりの日に、裁きは避けられない。主イエスはたとえで、殺された息子、すなわちご自分の死を語って、冒頭の旧約聖書詩編の言葉を示した。神は十字架にかけられて「捨てられた石」である御子イエスを死からよみがえらせ、「隅の親石」、救い主としたのである。悔い改めて、主イエスを信じる者はその罪を赦(ゆる)され、「神の国」に生きる者、神に仕える僕となる。