世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語リ伝えられるだろう。(マタイによる福音書26章13節)
一人の女が食卓の席にいた主イエスに近づき、石膏(せっこう)の壷に入った高価な香油を全部、主の頭に注いだ。主の頭から滴る香油はどんどん床に吸い込まれていく。居合わせた弟子たちはこれを見て憤慨し、「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言った。
ところが、主イエスは憤慨する弟子たちに、「この人はわたしに良いことをしてくれたのだ」(10節)と言った。高価な香油を全部注いで無駄にした彼女の行為を、主は「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」(12節)と言うのである。損得勘定で言えば、無駄で愚かとしか見えない彼女の行為は、主イエスの十字架の死につながる行為であった。すすんで十字架の道を歩み、命を犠牲にする主イエスの行為は、一見、無駄で愚かである。しかし、その十字架の愚かさは、神の無償の愛であった。主イエスは弟子たちに、彼女の無駄で愚かと見える行為こそ、神の無償の愛を証しするものであると教えたのである。
神に捧げる礼拝、奉仕、献金、また人々を助ける行為は、彼女がした行為のように、損得勘定でいえば、無駄で愚かである。しかし、そのような行為によって、十字架の福音は全世界に伝えられる。今日の聖句のように、福音が宣べ伝えられる所において、すなわち、主イエスの十字架における神の無償の愛が語られ、受け入れられる所において、その愛に触発されて、神と人とに仕える献身者が起こされ、彼女のしたことが記念として語られる。