無教会研修所(月本昭男代表)は11月23日、今井館(東京都文京区)聖書講堂でキリスト教講演会「塚本虎二の無教会伝道――近代宗教文化史のフロンティア」を開催した。講師は『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』の著者である赤江達也氏(関西学院大学教授)。
今井館は1907年、大阪の香料商、今井樟太郎の遺志に基づき妻・信子によって献じられた講堂で、新宿区柏木にあった内村鑑三の自邸内に建てられ、内村は終生この講堂で聖書を説いた。その後、区画整理のために目黒区中根に移転し、長くその地にあったが、2021年、再び移転して本駒込に新たな姿で建設された。館には聖書講堂と資料館が設けられ、管理・運営にはNPO法人今井館教友会があたっている。
無教会キリスト教の独立伝道者である塚本虎二(1885~1973年)は、1920~50年代に無教会の内外で大きな存在感を示していた人物で、岩波文庫版『新約聖書 福音書』(1963年)の翻訳者としても知られる。だが、生前から批判にさらされ、死後、過小評価されて、現在ではほとんど忘れ去られていると赤江氏はいう。
講演では、塚本に向けられた批判を再検討し、無教会運動の世代間変容を確認しながら、塚本を改めて「語りなおす」ことが試みられていた。具体的には、「主義」の時代に求道する「教養主義」世代、無教会第二世代(近代日本キリスト教の第二世代)の中心(内村と植村正久の間)にいた塚本といった論点である。
塚本の「無教会主義」に関しては、確かに、塚本が創刊した伝道雑誌『聖書知識』の標語「教会の外に救あり」は過激に思える。しかし、塚本が言わんとしたのは「キリストの救に入る唯一にして充分なる条件は、ただ十字架を信ずる信仰のみ」ということであった。また、塚本が翻訳した『福音書』は「口語訳」の先駆であり、教会に通わないがキリスト教を知りたいと考える層に広く読まれた。つまり、多くの教養読者たちにとって文字通り「バイブル」となったのだ。さらに、塚本の視線は、療養中などの理由で教会に通うことができない人たちへも向けられていた。『福音書』を、注釈を本文に加える敷衍訳としたこと、病床でも読みやすい文庫版にしたことは、そうした「教会なき人のための聖書」として世に送り出すためでもあった。
女性信徒との協働も塚本の大きな特徴であるが、これが単なる女性問題として誤解されることがあった。だが、女性にも男性と隔てなく聖書・語学教育を行い、聖書翻訳者として育成することで、塚本は女性が活躍しうる信仰と研究の共同体を形成したのだった。
最後に、塚本による天皇進講(1948年)など、無教会派の「皇室教育」について論じられた。塚本以外にも、南原繫や矢内原忠雄が天皇および皇室関係者に講義を行っている。宮内官僚・職員の中に無教会の信徒や共鳴者がおり、彼らが仲介したと考えられる。戦後における、こうした皇室と無教会の接近を、赤江氏は「相互の関心」の表れとして捉え、それぞれがどのような思惑や期待を持っていたのかを読み解いていた。そこから浮かび上がってくるのは、無教会と天皇制の関係性を問いなおす必要性だ。
赤江氏は、塚本は20世紀日本を代表する独立伝道者であるとし、近代日本の宗教文化史に位置づけるべき人物であると評して、講演を結んだ。
講演後、村松晋氏(聖学院大学教授)が応答した後、質疑応答が行われた。「無教会は日本を救うのか」との問いに月本氏は、「無教会は福音の一つのあり方であり、無教会が日本を救うとは思っていない」と答えた。さらに、皇室とキリスト教との関係について、戦後、皇室を維持するための政策として、宮内庁は天皇家によるキリスト教理解を国内外に示そうとしたのではないかとの意見も出された。
閉会あいさつに立ったNPO法人今井館教友会理事長の加納孝代氏は今井館の沿革をたどりつつ、これまで3度の危機があったが、それを乗り越えて今日があると述べた上で、今井館の使命について語った。「私たちは内村鑑三と彼に連なる者たちが目指した最終目標すなわちファイナル・ゴールを目指します。それは正義と隣人愛を基調とする平和的な社会の形成です。具体的には自らも内村らの思想と活動を調査・研究しつつ、志を同じくする人々を支援し、成果を広く社会に普及させることです。教会に行っていない人でも、公の場で信仰告白をしない人でも、正義と隣人愛と平和というファイナル・ゴールを共有する人々を、私は『かくれキリシタン』と呼びたいと思いますが、今井館はそうした人々と私どもの共同の活動拠点となり得ると思います」
今井館聖書講堂では、来年3月にも島薗進氏を招いた講演が予定されるなど、今後もさまざまな企画が予定されている。