宗教上の目的で描かれた絵画のことを「宗教画」という。文字が読めなくとも二次元の迫力をもって、見る人に信仰心を持たせたり、高めたりすることができる。キリスト教の宗教画であれば、礼拝の様子や聖書のワンシーンなどが有名である。仏教の宗教画の一つに『涅槃図(ねはんず)』がある。80歳で亡くなられたお釈迦さまを偲んで、人、動物や仏たちが集う景色を描いている。
涅槃図のテーマの一つは「死」だと私は受け止めている。この「死」という現象や命題は、生きている私たち一人ひとりの中にある仕組みの一つだ。しかし、私たちはその「死」を見て見ぬ振りをしている。客観的に自分の死を見つめる機会はめったにないし、自分がいつか死ぬとは認めたくもない。誰かの死であれば訃報は聞くものの看み取ることも少ない。人間関係が希薄であればなおさらである。かといっていつかはその時が来るわけで、特に自分の死とは放置することができない大問題だ。そこで誰かの死を通して、自分の死を考えられる「涅槃図」に出番がある。
お釈迦さまの周りにはたくさんの生きとし生けるものが集まった。自分が亡くなったら、どのような状況になるだろう。
お釈迦さまは「怠らず励め」と言葉を残した。私はこの世界からどんな言葉を求められているのだろう。
お釈迦さまは80歳にして亡くなった。自分はどのような人生を歩んでいくだろう、歩んでいきたいだろう。
お釈迦さまは亡くなるまで教えを広める旅をしていた。私も最期まで自分の生き様を世界に示したい。
とある人物はお釈迦さまと生前に会えず、死後に対面できた。これも普通の死に様だ。これが死だ。
涅槃図を見ていると気づく。いつかは死が訪れる。だからこそ自分は生きていると言えるものの、自分のいのちは自分の好きにできない。仏教では、自他を害することも、害させることもしないように、と自己を戒める。キリスト教では、自分の生き方を創造主にお返しするのだから自分の意思で死ぬことは認めにくいだろう、と私は認識している。つまり、自分の死は自分に訪れるけれども、自分のものではないのだ。これは人生に責任を負わず自暴自棄になっていいことではない。ただ単にそうだ、というだけである。これが自分だと思っている自分像に縛られている必要はない。学校や職場の肩書き、名前、性別や年齢とはラベルにすぎない。もっと自由に生きていい。いや、本来、自由自在なのだ。
普段の生活で「(自分の)死」と向き合う機会はめったにない。私たちは忙しい毎日を過ごしている。必死に生きているからこそ、自分の人生から離れることができない。人生に行き詰まり、息も詰まり、抜け出せず苦しい思いをしてしまう。ふっと休んで、自分の人生からひと息離れる時間や機会が我々人間には必要だ。
向井真人(臨済宗陽岳寺住職)
むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。