2023年10月7日のハマスによる襲撃で始まった戦争は、中東全体に大きな変化をもたらしつつある。イスラエルとの交戦によるヒズボラの弱体化は、シリアのアサド政権の崩壊につながり、2022年10月以降空席となっていたレバノン共和国大統領が選出された。イスラエルとレバノンの間の停戦は、昨年11月末からかろうじて続いている。ハマスとの停戦は今年1月のトランプ米大統領就任直前に署名され、発効した。
ハマスとの停戦プロセスは、イスラエルの人々にとっては毎日がジェットコースターに乗っているような感覚で進行中である。イスラエルにとって最も重要なのは人質全員帰還なのだが、それには二つ段階がある。第一段階では「人道的解放」という名目で、3月2日までに子ども、女性(まず民間人、次に兵士)、50歳以上の男性、医療支援が必要な男性というカテゴリーの33人が、まずは生存者から解放される。その間にイスラエル軍はガザから段階的に撤収、ガザ北部への住民帰還、人道物資の搬入、イスラエルの刑務所に収監されているパレスチナ人約2000人の釈放が行われる。2月3日からは、第二段階である残り65人(成人男性)の人質解放交渉、戦後のガザの復興と統治形態についての交渉が始まることになっている。
人質解放は基本的に1週間に1度、約3人ずつで、解放される人の名前は前日にハマスから渡される。つまり誰が戻ってくるか直前まで分からない。生存者が優先なので、後になるほど遺体で戻ってくる確率が高くなる。人質が戻ってから、収監されているパレスチナ人が釈放されるが、重罪者は海外追放となる。合意が成ったとはいえ毎週何が起きるか分からない。初日には名簿が前日に渡されなかったので停戦発効時刻が遅れた。2度目は女性民間人が女性兵士より後回しになり、取り決め違反ということでガザ住民北部帰還の停止措置が取られたため、移動を始めていた人たちは大混乱に陥った。取り決めがあっても、少しずつ逸脱しながらどこまで自分たちに有利に運べるか試しつつプロセスを進めるのがこの土地での流儀だ。いつその微妙なバランスが崩れて、すべてが頓挫するか分からないのである。
停戦が発効して最初に女性3人が解放された日、イスラエルは国中が喜びに湧いた。ニュースを伝える記者たちも皆泣いていた。この1年以上止まっていた時計が再び動き出したようであった。少し驚いたのは、人質解放の3度目に、イスラエル側名簿には載っていない5人のタイ人労働者が戻ってきたことである。彼らはイスラエルの農場で働いていて被害にあった。パレスチナ人収監者との交換とは関係ないのに、なぜ彼らが長期間拘束されていたのかは分からない。名簿に載っていなかったのはイスラエルが「国民扱い」していないからかと疑ったのだが、それはタイ政府の意向であったことが明らかにされた。タイ政府は独自にハマスと交渉したという。彼らはイスラエルの病院で手当を受け、イスラエル政府の手配で家族がタイから呼び寄せられた。今なおハマスに拘束されているタイ人がいるのだが、労働条件がいいということでタイ人労働者の数は、開戦前より今の方が増えたという。
まだ停戦プロセスの先行きは長く、政治的に何も解決していない。だが再び戦争に戻るという雰囲気は感じられない。今はただ停戦プロセスが最後まで遂行されることを祈るばかりである。
山森みか(テルアビブ大学東アジア学科講師)
やまもり・みか 大阪府生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程修了。博士(学術)。1995年より現職。著書に『「乳と蜜の流れる地」から――非日常の国イスラエルの日常生活』など。昨今のイスラエル社会の急速な変化に驚く日々。