【クリスチャンな日々】第33回 クリスチャンには「うっせぇわ」が足りない MARO

主の御名をあがめます。

MAROです。一都三県では緊急事態宣言が延長されて、せっかくの春なのにじっとりと閉塞感。解除された地域でもやっぱりまだまだ閉塞感。気の滅入りそうな日々が続きますが、なんとか滅入らずに今回もしばらくいくらかお相手させていただきます。よろしくどうぞ。

さて、この閉塞感に対するささやかな抵抗なのか、世の中では『うっせぇわ』という曲が流行しています。女子高生シンガーが、世の中の「理不尽な不文律」に対して「うっせぇわ!」と怒りをぶつける曲です。この曲、ニュースや新聞では「若者に流行」とか「若者の不満を代弁した歌詞がヒット」とか報じられています。が、僕はもう完全に「若者」とは言われない年齢ですが一発で気に入ってしまいましたし、いわゆる「大人」でも気に入っている人は多いと思います。

ちょっと意外に思われるかもしれませんが、2000年前のイエス様も世の中の「理不尽な不文律」に対して「うっせぇわ!」と言った人です。当時のユダヤ社会には、今の日本のそれとは違いますけども、たくさんの「理不尽な不文律」がありました。たとえば旧約聖書に「安息日には休むようにしなさい」と書かれているのが拡大解釈されて「日曜日には料理もしてはいけないし、収穫するなんてもってのほか!」とか、そんなルールがあったりしたんです。そのルールに対してイエス様が言ったのは、

「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたわけではありません」マルコ2:27

言葉は穏やかですが、意味としては明らかに「うっせぇわ!」と言っています。ルールを大事にするあまり、ルール自体が目的化して本末転倒になってしまっているのを、見事に指摘しています。

「断食している僕は偉いのだ!」と自分の断食をみんなに見せびらかしている人に対しては「断食を人に見せびらかしてる時点で偉くもなんともないわ!断食するなら一人で勝手にやれ!」と言いました。これも一種の本末転倒です。

話を戻して『うっせぇわ』でも、「酒の空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい」とか「皆がつまみ易いように串外しなさい」のような「不文律」が批判されていますが、もともとグラスにお酌をするのも、焼き鳥の串を外すのも、目的は「飲み会を快適にするため」ですよね。(実は僕はお酌されるのも、焼き鳥の串を外されるのも好きじゃないので、それで快適にはならないのですが、それはさておき。)それがいつの間にか、その「飲み会を快適にするため」のルールによって、飲み会が不快なものになってしまう、という本末転倒が起こってしまっているんです。だからそのルールに対して「うっせぇわ!」と思うわけです。

飲み会に限らず、世の中には同じように、いつの間にやら本末転倒になってしまったルールがたくさんあります。近頃「ブラック校則」なんていうのも話題になっていますが、これなんてその典型ですよね。あらゆるルールはつきつめればその目的は最終的に「幸せに生きるため」あるいは「不幸を防ぐため」です。しかし、現代社会を見回してみると、あまりにも本末転倒が多すぎます。「幸せになるためのルール」が邪魔をして幸せになれない、とか「不幸を防ぐためのルール」で不幸になってしまうとかいうことが多すぎます。特に不文律というのは文字通り明文化されていないので、一人歩きして拡大解釈されたり曲解されたりしがちですから気をつけなくてはいけません。

聖書だって神様から人間に与えられた「幸せになるためのルール」です。ですから聖書によってかえって不幸になってしまうとか、生きにくくなってしまうならそれは本末転倒です。まして聖書を勝手に解釈してあれもだめ、これもだめと不文律を作って人を縛ってしまったりしては、それこそイエス様に「うっせぇわ!」と怒られてしまうことでしょう。

聖書によって、あるいは教会によって、かえって生きにくくなったり、息が詰まったりしてしまっている方、いませんか。そんな時にクリスチャンだからと言って「おとなしい良い子」である必要なんてありません。「うっせぇわ!」と言ってしまったって良いんです。もちろんそれで物理的に暴れたり、人を傷つける暴言をはいたりしてはいけませんが、一人の部屋とか内心とかで「うっせぇわ!」と叫ぶことは、むしろ一種の祈りでさえあります。

教会生活で「奉仕が足りない」「祈りが足りない」「信仰が足りない」「感謝が足りない」「愛が足りない」・・・などなど、「○○が足りない」と叱られたり、励まされたりするケースはよく聞きますが、もしかして今のクリスチャンに一番「足りない」のはこの「うっせぇわ!」なのかもしれません。ですからこれを読んで「うっせぇわ!」と思う方がいるのなら、それもまたよしです。溜めるよりは吐き出しちゃいましょう「うっせぇわ!」。

それではまたいずれ。
MARO
でした。

主にありて。

 

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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