新しい駐日バチカン大使にレオ・ボッカルディ大司教 昨夏急逝のチェノットゥ大司教の後を受け

教皇フランシスコは11日、新しい駐日バチカン大使(教皇大使)としてレオ・ボッカルディ大司教(67)を任命した。

レオ・ボッカルディ大司教(写真:IAEA Imagebank)

レオ・ボッカルディ大司教は1953年、イタリアのサン・マルティーノ・イン・ペンシリス(長靴のアキレス腱のあたり)で生まれた。79年、教皇ヨハネ・パウロ2世によって司祭に叙階。神学博士。87年にはバチカンの外交官に就任し、その後、ローマにある国務省外務局に戻るまで、ウガンダ、パプアニューギニア、ベルギーで働いた。

2001年、国連機関や各種国際会議にバチカンを代表して出席するよう教皇ヨハネ・パウロ2世から指名された。国連の国際原子力機関(IAEA)や欧州安保協力機構(OSCE)、包括的核実験禁止条約準備委員会(CTBTO)へのバチカン代表、2001年3月17日からはウィーンの国連工業開発機関(UNIDO)と国連事務所でのバチカン常任オブザーバーを務めるなどした。

07年にはビテトゥム名義大司教、およびスーダンとエリトリアの教皇大使に任命された。同年、司教に叙階。13年、イランの教皇大使に任命され、現在に至る。イタリア語とフランス語、英語、スペイン語の4カ国語が話せるという。

2020年1月3日に起きたイラクのバグダード国際空港攻撃事件で、イランのイスラム革命防衛隊のガーセム・ソレイマニ司令官らが殺害されたことについて、ボッカルディ大司教は次のように述べた。「交渉と正義の武器を使用しなければならない。緊張をやわらげなければ。すべての当事者は対話を信じる必要がある。戦争と武器によっては、世界を苦しめている問題が解決しないことは、歴史が常に教えてきたことだ。私たちは交渉を信じなければならない」

前駐日教皇大使のジョセフ・チェノットゥ大司教は昨年5月に自室で倒れ、駿河台日大病院で緊急手術を受けた。8月初めに聖母病院へ転院し、車椅子で故郷インドに帰ることができるよう懸命な闘病生活を続けていたが、小脳梗塞(こうそく)による大孔(だいこう)ヘルニアのため、9月8日、76歳で帰天した。その後、駐日教皇大使は空席となっていた。

チェノットゥ大司教は11年に日本の教皇大使に任命され、19年には駐日大使としての役職の定年を過ぎていたものの、教皇フランシスコ訪日準備でそれを延長し、来日から約9年という長い在任期間となっていた。年明けに休暇で故郷インドに戻る予定だったが、新型コロナ・ウイルス感染症のために取りやめとなり、東京の大使館で自粛生活を送っていたところだった。

菊地功東京大司教はチェノットゥ大司教との思い出を次のように述べている。

「大使は、2011年来日直後、仙台で開催されていた日本と韓国の司教団の集いに出席され、一緒に石巻を訪問されました。そのときからいまに至るまで、東北の復興には常に思いを寄せてくださいましたし、それを教皇様にもしばしば伝えてくださいました。そういった配慮が、昨年の教皇訪日にあって、教皇様ご自身から、東日本大震災の被災者との集いを行いたいというリクエストとなりました」。

19年11月、教皇フランシスコが来日した際にチェノットゥ大司教が教皇大使として出迎えたことは記憶に新しい。

歴史を振り返ると、1919年、日本にローマ教皇庁使節館が設置され、42年には両国の正式な国交が結ばれた。58年に日本はバチカン市国日本公使館を大使館に格上げし、66年にはバチカンも東京のローマ法王庁公使館を大使館に格上げした。

バチカン図書館やバチカン機密文書館には、400年以上の長い歴史の中で蓄積された日本に関するさまざまな資料が残されている。宣教師の報告、キリシタン関係や遣欧使節の資料、近代のローマ教皇庁と日本政府の外交関係資料などで、まだ調査や研究の及んでいない文献もその中には含まれている。

2019年、日本と教皇庁との交流が始まってから100年目を迎えたことを記念して、20年10月21日~11月30日、東京の国立新美術館で「カラヴァッジョ《キリストの埋葬》展」を開催する予定だったが、新型コロナ・ウイルス感染拡大に伴い、21年3月24日~5月10日開催に変更したものの、バチカンからの作品輸送が困難なため、開催中止を決定した。「キリストの埋葬」はバチカン美術館を代表する名品。バチカンと日本の文化交流を深めるこうしたプロジェクトにもチェノットゥ大司教は関わっていた。

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