今日7月18日は日野原重明(ひのはら・しげあき)の召天日です。
メソジスト教会の牧師であった日野原善輔(ぜんすけ)の次男として山口県で生まれました。7歳のとき、日本メソジスト神戸中央教会(現・日本基督教団・神戸栄光教会)で洗礼を受けます。
母親(満子)も日本メソジスト山口教会の信徒で、少年時代、母親の命をある医師が救ってくれたことから医学の道を志すようになり、37年、京都帝国大学医学部を卒業。その後、いくつかの病院勤務を経て、41年、聖路加国際病院で内科医として働き始め、やがて同病院の院長や理事長などを歴任しました。
1945年8月15日、33歳のとき、聖路加国際病院のチャペルで玉音放送を聞いたといいます。大学の時に大病を患ったため、徴兵されなかったのです。
戦争中は、病院の塔にある十字架が切断され、敷石に刻まれていた「神の栄光と人類奉仕のため」の文字も憲兵に咎められ、御影石の板を上に置いて敷石に釘で打ちつけたといいます(今もこの時のくぎの穴が残っている)。
日野原は言います。
「他人の価値観や尊厳を否定するという意味において、いじめと戦争は同じ。互いに許し合えば、平和がやってくるはずです。聖書には『右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい』と書いてある。殴られても殴り返さずに耐えるという日本の憲法も、聖書と同じ、耐える精神が盛り込まれています。憎いと思う相手を、耐えて許すことが何より大切なのです」(日経ビジネス)